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織田信長に仕えた黒人「弥助」とはどのような人物だったのか?

濱田浩一郎歴史家・作家

戦国大名・織田信長に仕えた黒人男性「弥助」と、弥助について書いたトーマス・ロックリー(日本大学法学部准教授)の書籍『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』(太田出版、2017年)が話題を集めています。トーマス・ロックリー氏の同著に、戦国時代の日本において「地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ」という記述があり「それは事実とは異なる」「日本が黒人奴隷を生んだというデマが世界に広まってしまうのでは」と非難・懸念されているのです。今回は悪い意味で注目を浴びてしまったのですが、弥助とはどのような人物だったのでしょうか。

 弥助は、イエズス会の司祭・ヴァリニャーノがインドで買い求めたアフリカ系の黒人奴隷でした。弥助について分かっていることは多くはありません。信長との出会いは、天正9年(1581)2月23日のことだったようです(『信長公記』)。信長の家臣・太田牛一が著した『信長公記』には「きりしたん国より黒坊主参り候」と記載され、これが弥助とされています。同書は、弥助の年齢を二十六・七歳、その身体が黒いことを「牛」のようだ、頑強な身体で「強力」だったとも記します。黒人に興味を示した信長はヴァリニャーノから弥助を譲って貰ったのでした。

 徳川家の家臣・松平家忠の日記『家忠日記』にも弥助は登場し(1582年5月11日)、弥助は「くろ男」(黒人)と書かれています。そしてその「くろ男」の名は「弥助」と言い「上様」(信長)が「御ふち」(扶持)していたとも記述されているのです。信長は弥助に俸禄を与えており、主従関係にあったのでした。しかし、弥助と信長の対面から1年4ヶ月後に本能寺の変が起こり、信長は自害してしまいます。その際、弥助は、信長の嫡男・織田信忠の宿所だった二条新御所に急行。同所で明智軍と交戦しますが、捕縛されます。明智光秀は日本人ではない弥助を殺すことはないと解放するのでした。その後、弥助の消息は不明です。

これは筆者の推測ですが、弥助の本能寺の変の際の行動を考えるに、彼は信長に恩義を感じていたのでしょう。黒人奴隷として数々の辛酸を舐めてきたと思われる弥助でしたが、日本において初めて「人間」らしい扱いを受けたのではないか。本能寺の変の際の弥助の行動はそのようなことを想像させます。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』『明徳の乱』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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