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相模原事件、植松聖被告の元交際相手女性が証人として法廷で語った衝撃内容

篠田博之月刊『創』編集長
横浜地裁(筆者撮影)

 相模原事件の裁判が始まってから、ほぼ毎日、横浜に通う日々だ。公判のなかった1月14日は植松聖被告の接見に行ったから、1月8日以降、平日は毎日、横浜に行っていることになる。続いて1月20日以降も毎日、公判が入っている。しかも、いよいよ山場の被告人質問が始まる。

 植松被告が事件後初めて、刃をふるった障害者に謝罪する意向であることは、1月14日の接見でわかったが、さてそれを彼はどう語るのか、ぜひ傍聴したいが、またものすごい倍率の抽選になるのだろう。行ってみないと傍聴できるかどうかわからない。ちなみに14日の接見については下記で報告したので未読の方はご覧いただきたい。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200114-00158929/

翌朝小指は噛みちぎったー相模原事件・植松聖被告が面会室で語った驚くべき話

 1月15日の第3回公判では、最初に殺害された女性が初めて甲Aでなく美帆さんと法廷で呼ばれたのだが、その母親の調書を検事が朗読するのを聞きながら、思わず泣いてしまった。障害のある娘を大変な思いをして育て、絆も感じていたのに、その娘を殺されたというのでは、理不尽すぎて、遺族の心情を思うと涙が出た。隣に座った津久井やまゆり園の入倉園長も途中から泣いていた。

 私は傍聴していて涙を流すことはこれまでも何度かあるのだが、今回は最前列の席だったから、ちょっと目立ちすぎてまずいなとも思った。植松被告にも見られただろうし(苦笑)。でも遺族の証言は、施設のあり方を含めていろいろ考えさせられた。この話は近々書くことにして、その前にここでは1月17日の第5回公判での、植松被告の元交際相手女性Aさんの証言を紹介しよう。

証言台に立った植松被告の元交際相手

 前から可能なら話を聞きたいと思っていたのが、植松被告の両親と、このAさんだった。

 この女性は植松被告の両親とも会っているし、両親公認の「彼女」だ。ただ、実は植松被告は、事件を起こす直前に、ある女性と「最後の晩餐」をするのだが、これがまた別の女性。その最後に会った女性については、接見時に植松被告に確認したが、つきあっていたわけではないと言っていた。

 二人の女性とも警察の事情聴取は受けていると思うが、最後に別の女性に会っていたというのは、Aさんとしては心中穏やかではないはずだ。だから裁判のこんな早い段階に、出廷して証言したということに驚いた。検察側が頼み込んで、Aさんとしては相当な覚悟で臨んだのだろう。

 その法廷では、衝立でAさんは弁護側と傍聴席から見えないようにされていた。Aさんとしても、植松被告と顔をあわせたくないという気持ちだったのだろう。

 そしてAさんは、最初に検察側からの質問に答え、続いて弁護側から反対質問を受けたのだが、ちょっと驚いたのは、弁護人が最後に「これは聞きにくいことなんですが」と言った後、「つきあっていた女性はほかにもいたと思われていました?」と聞いた。

 女性は「ほかにもいたと思います。彼にそのことを聞いたことはないですが」と答えたのだが、その後、再び検察官が質問する際、「大丈夫?」「ごめんね」と言っていた。Aさん自身は傍聴席からは見えないのだが、恐らくかなり動揺して、泣きそうになっていたのだろう。

 女性は検察側証人だから、その証言を弁護側が崩そうとするのは仕方ないが、意を決して法廷に姿を見せたAさんに「ほかにもつきあっていた女性がいた」という質問はいささか酷ではないかと思った。

 Aさんの証言は、事件に至るまでの植松被告の普段の言動がどの時点でどう変わっていったかというもので、検察側は直接証言してもらうことで、植松被告の事件への計画性などを立証しようと考えたのだろう。

 それにしても名前と顔を伏せてとはいえ、植松被告と交際していたことを根掘り葉掘り法廷で尋ねられるというのは、相当のプレッシャーだったはずで、よく証言台に立ったと、女性の勇気に感心した。

傍聴していて驚いた「新日本秩序」の話

 女性の証言は概ね、これまで植松被告自身から聞いていた経緯と重なるものだが、随所に重要な内容を含んでいた。傍聴席にいた私が驚いたのは、犯行前の2016年5月に、Aさんが植松被告に見せられた文書に「新日本秩序」とタイトルが書かれていたという話だった。

「新日本秩序」とは、2017年8月に植松被告から『創』編集部に最初に送られてきた獄中ノートにびっしり書かれていた彼の考えをまとめた文書に書いてあったタイトルだ。彼はそれを冊子にしたかったようなのだが、表紙のデザイン案も付けられていた。表紙に「創」の文字が見えるのは、彼が『創』に掲載するか、『創』編集部で冊子にしてほしいと考えたからだろう。

『創』編集部に送られた「新日本秩序」(筆者撮影)
『創』編集部に送られた「新日本秩序」(筆者撮影)

 重度障害者の大量殺害を、植松被告は主観的には世直しと思い、安楽死思想を含む自分の考えを体系化させていたのだが、今回の証言でわかったのは、事件の2カ月前にそれはできていたということだ。

 この「新日本秩序」については、相模原事件についてまとめた『創』編集部編の『開けられたパンドラの箱』(創出版刊)にも一部収録したし、雑誌『創』では2017年10月号で「植松被告がしたためた『獄中ノート』の中身」と題して7ページにわたって紹介した。

 Aさんが見たというのは、その獄中ノートほど長文ではなかったような証言だったが、その時期から植松被告は、自分の考えや世界観を体系化させようと考えていたらしい。

 そのほかにもAさんの証言には重要なものが多々含まれていた。何よりもその証言を顔は見えないとはいえ肉声で聴けたのは貴重なことだった。以下、その証言の主な部分を、法廷でとったメモをもとに紹介していこう。

二度目の交際時には前と違っていた

検(検察官、以下同)あなたが被告人と交際していたのはいつ頃ですか?

A 2014年8月頃からお付き合いし、冬に一度お別れしました。その後、2015年9月に彼から電話を頂いて、冬にまたお付き合いが始まりました。

検 最初にお付き合いした頃、既に被告人はやまゆり園で働いていたと思いますが、障害者に対して「生きていてもしょうがない」といった考えを話していましたか?

A そういうことは全く聞いたことがありません。一度、やまゆり園の近くで入所者を見かけたことがあるのですが、「あの人は可愛いんだよ」と言っていました。

検 あなたが一度別れた理由は何だったのでしょうか。

A 私と会うのをドタキャンしたりすることが多かったので、もっと一緒の時間を作りたいよと言ったのです。そしたら「友人と会う時間を削ってまでお前と会うつもりはない」と言われました。衝撃的な言葉で、涙を流しました。彼は言ったことを曲げない人なので別れることにしたのです。

検 2015年にまた交際が始まって、被告人が前と変わったなと思うところはありましたか?

A (入所者への)ネガティブなワードが増えました。「生きてても意味ない」「生産性ないから」といったことです。「あいつら人間でない」「どろどろの食事食べていて…」などと言っていました。

検 「殺す」と言っていましたか?

A 殺すというワードよりも、「俺がやる」と言っていました。

検 どうして悪く言うようになったのでしょうか。

A コミュニケーションとるのが難しかったり、介助しててもお礼の言葉を聞くことがない、それに給料も安いし、何のために仕事してるのかわからなくなった、と言っていました。

検 あなたはそれに反論しましたか?

A (入所者を)支えているご家族の存在もあるし、一人一人の人権も尊重すべきだし、家族の思いを考えると賛同できないと言いました。

検 それに対して被告人はどう反応しましたか?

A 強い口調で「お前、まじで言ってんのか」と言われました。

検 そんなことしたら刑務所に入るよという話をしたことはありましたか?

A しました。でも根拠もなく「何とかなるよ」という返事でした。

検 彼は友人にもそういう話をしていましたか?

A 友人にも話しており、「わかってくれるやつはわかってくれる」と言っていました。

検 実際に賛同した人がいると思いましたか?

A 思っていなかったです。適当に流したのが同意と受け取られたのかと思いました。

2016年初めにはトランプやイスラム国に関心

 以下のやりとりは、いつ頃の出来事か曖昧なまま進んでいくのだが、状況を総合すると2016年1~2月のことだろう。当時、アメリカ大統領選でトランプが立候補し、テレビでそのニュースが流れていた。またイスラム国が人質を殺害するニュースもテレビで流れていた。

 そうした世界的な動きにも影響されて、一気に植松被告は事件に至る障害者観に染まり、2月に衆議院議長公邸に殺害を予告した手紙を届ける。

検 その頃、被告人はどんなことに興味を持っていましたか?

A トランプさんに対して、この人は大統領になると言っていました。またイスラム国とか、(フィリピンの)ドゥテルテ大統領とか、ネットニュースで見ているようでした。賛同するというか、権力ある人が発信する言葉の雰囲気に影響を受けていました。

検 どんな点に共鳴していましたか?

A 国境の壁を作ったり、皆が(遠慮して)言わないようなことを言葉にしていると言ってました。

検 当時、被告人がイルミナティカードに興味を示していたと思いますが、きっかけは何だと言っていましたか?

A テレビの番組で知ったと言っていました。ネットで調べたとも言ってました。カードについてのエピソードとかも話してくれました。

検 その頃、彼の様子が変だと思ったことはなかったですか?

A 特に感じませんでした。

検 事件の前に彼は措置入院するわけですが、それについてはどう言ってましたか?

A 措置入院した時にはお母さんから連絡がありました。退院した翌日か翌々日には彼から電話がありました。

検 どんな様子でしたか。

A 前と変わらず元気でした。

検 退院について何か言ってましたか?

A 医者をだましたと言ってました。当初は強く抵抗したけれど、その後は聞き分けの良い子を装ったと言ってました。

検 大麻についてはどう言ってましたか?

A 体に良くないのでやめた方がいいよと言ったのですが、気分良くなるし、ほかの国では合法なんだよと言ってました。

検 あなたはやめろと強く言いましたか?

A 言わなかったです。やめた方がいいよと言った時に「やってもないのに言うなよ」と表情が変わったのです。

検 大麻を使っているところを知ってましたか?

A 振り返ってみればあれがそうだったのかと思うことはあります。彼の行動をみていてどうなのかと思うことがあったし、タバコを幾つか選んで吸う時に見たら、タバコの先がよれていました。コンビニでタバコを買ってきて、小袋に入ってる茶色のものをタバコの先に入れていました。

検 タバコの先に詰め替えていたのは大麻でしたか?

A  措置入院したことをきっかけに(大麻が検出され)そうなんだと思いました。

検 吸った時に変わった様子はありましたか?

A 少し元気になったり、楽しそうな感じになりました。

検 退院後に被告人は生活保護を受けるわけですが、どうして支給が認められたか言ってましたか?

A うつ病と言ってました。役所に行く時にも「うつ病のふりしてくるから」と言ってました。ケースワーカーの方がいらっしゃる時には「今からふりしてくる」と言ってました。

どこかでばれるよ、と言ったのですが、「そんなの大丈夫だよ」と言っていました。

検 その頃、障害者への発言はどうでしたか?

A ネガティブな発言でした。「生産性ない」とか「生きてても仕方ない」と言っていました。

検 事件についてどう言ってましたか?

A 先駆者になる、刑務所に入っても世間の人がわかってくれてすぐに出てくると言っていました。

検 どうしてそう考えたのでしょうか?

A トランプ大統領とか過激な発言で称賛を浴びたりしてしていたし、自分もそこに入りたいと言ってました。

映画をDVDで見て「これだ!」と

 次に紹介するのは植松被告が後に心失者という概念を作り上げていくうえできっかけになった映画の話だ。Aさんの証言は、全体として、これまで植松被告が語っていたことと符合するのだが、この映画の話はこれまであまり知られていなかったような気がする。

検 映画を見て障害者について話したことがあったそうですね。

A 「テッド2」の映画をDVDで自宅で見ていた時、人権についての話になりました(注:この記事では最初、「ペット2」と書いていたが読者から「それは『テッド2』だ」というご指摘があった。1月22日付で修正する)。映画でテディベアの人形に人権を与えることができるのかという議論があったのですが、自己認識できることが人間だという話に、「俺が言いたかったのはこれだ」と興奮していました。

肩を叩いて、「これだ」と目を輝かせていました。退院して翌月くらいだったと思います。

検 彼と一緒にやまゆり園の関係者に会ったことがありましたか?

A 5月頃にコンビニでお会いしました。彼が敬語で話していたので先輩にあたる方かと思いました。ヘコヘコしている感じでした。恰幅の良い男性でした。

検 どんな話をしましたか?

A (彼がやめた後)園の方でも体制変わったり、対策とられたり、防犯カメラ設置したよと言ってました。彼は「どこについたんですか」と聞いていました。でも先輩は「お前、本当にやめろよな」と彼に言い、私にも「よく言ってあげて下さいよ」と言いました。

検 先輩と別れた後、彼はどんなことを言ってましたか?

A  怒った口調で「まじで、そういうこと言うなよな」と言ってました。

検 あなたは5月頃に彼から書いたものを見せられたそうですね。

A 「新日本秩序」とありました。「ニュージャパンオーダー」とも書いてありました。大麻の合法化とか書いてあったと記憶しています。

検 その後、恋人としてお付き合いは続けていたのですか?

A 続けていました。7月上旬に大阪に旅行に行ったり楽しく過ごしました。

検 彼はその間に美容整形をしたわけですね。

A 見た目がいい方がトクだと言ってました。整形した後、俺の言うこと聞いてくれるようになったと言ってました。

検 体も鍛えていたのですね。

A ジムに行って体を鍛えていました。プロテインを飲んだり、ムエタイをやったりしていました。

検 彼との間で予定していたことがあったのですね。

A 8月には花火大会とか格闘技を見に行こうと話してました。私の仕事の都合でどちらかしか行けないとなったら、彼の都合で格闘技を優先していました。

〔注〕実際にはこの7月26日未明に植松被告は事件を起こす。だからAさんとの8月の約束は何だったのか謎だ。

施設の仕事を「一生懸命やっても報われない」と

検 被告人の性格をどう思いますか?

A 楽観的、自分の意見を曲げない、目立ちたがり屋の面があります。出かける場所を決める時も彼の意向を優先していました。DVDを借りる時も、こっちの方が見たいと言っても彼が提案した方に決まっていました。

検 最初に別れた時も自分勝手と思いました?

A そうですね。

検 人によって接する態度が変わることはありましたか?

A  きれいで可愛い人には紳士的で、ふくよかな女性にはぞんざいに接していました。

 刺青の先輩とか地位のある人には、尊敬しているという態度でした。

検 被告人に借金があることは知ってましたか?

A ありました。100万かそのくらいだったと思います。督促の電話が入って、低姿勢で対応していましたが、終わってからは「こんな電話、意味ねえよ」と言っていました。

検 あなたにも借金していましたか?

A 脱毛に行くからというので2~3万円、あるいは4万円くらい貸しました。

検 それは戻ってきましたか?

A 返ってきていません。

検 被告人の車の運転はどうでした?

A 荒い運転で、対向車線にはみ出したり、一般道で100キロくらい出してました。

検 あなたはなぜ彼と別れなかったのですか?

A  一緒にいて楽しい場面もたくさんありました。私のことを考えてくれたり、仕事の後に迎えにきてくれたこともありました。ご両親にもお会いしたし、私にとっては大切な人でした。

検 やまゆり園を辞めたことで何か言ってましたか?

A 現場に関わることで、彼の中でも疲弊したこと、彼の中で屈折したものはあったようですが、いい方へ向かっていくのかと思っていました。一生懸命やっても報われない、(入所者に)お礼の言葉も言ってもらえないと言ってました。

検察側の立証趣旨は…

 以上が検察官からの質疑応答だ。この後、弁護側の反対質問があり、さらに検察側から、そして裁判員と裁判官からも質問があったが、長くなるので割愛しよう。

 この法廷は、Aさんを衝立で区切るなどしたため、傍聴人などの入廷退廷にいつもより時間がかかり、Aさんの証言は10時半の開廷から午後2時頃までかかった。

 そして休憩の後、2人目の証人として実名・顔出しで証言したのは、事件当時、やまゆり園の前に住んでいた男性だった。防犯カメラを自分で設置していたようで、植松被告の車が侵入前に停まり、殺害後に立ち去るのも見ていた。植松被告の車のバンパーが壊れていたのを、ぶつけてしまったのかと思い、手を貸そうと近づいた。犯行前に植松被告に「大丈夫ですか」と声をかけたところ「大丈夫です。やまゆり園の人間です」と答えたという。

 検察官は「ろれつが回らないとか、不審な様子はありましたか?」「薬物を使っているような様子はありましたか?」などと証人に尋ねたが、証人は「ありません」という答えだった。

 検察官がこの証人を呼んだのは、事件当時、被告が大麻を吸った影響で心神喪失状態だったという弁護側の主張を崩す目的だろう。犯行後、植松被告が車で走り去った後には、結束バンドが落ち、血痕が見られたなどと証言した。

 なお相模原事件については、月刊『創』に掲載したものを1冊にまとめた書籍『開けられたパンドラの箱』を創出版から刊行している。事件に至る経緯について植松被告がどう語っていたかも書いてあるので、Aさんの証言と付き合わせてみてほしい。

https://www.tsukuru.co.jp/books/2018/07/post-37.html#more

〔追補1〕この記事と、その前に植松被告に接見した話を書いた記事には大きな反響があり、記述についてもいろいろな指摘を受けた。映画のタイトルは「ペット2」でなく「テッド2」だという指摘も受けて、1月22日に記事を一部修正した。

[追補2](2020年3月4日)上記の元彼女の証言記載について、3月3日に植松被告に接見した際、事実関係について訂正してほしいという要望が出された。

 植松被告は「お金は返しました」と言う。「でもそれは彼女が法廷でそう言ったことだから」と言ったが、「いやそこは曖昧な証言だったと思います」と主張した。念のために、他の傍聴した人がまとめたメモも確認したが、やはり元彼女の発言は同じだった。ただ確かにその質問を受けて答える際に、彼女は少し間をあけ言いよどんでいた。記憶をたどってどう答えるか一瞬考えていたのは確かだ。

 いずれにせよそれについては彼女の法廷証言の際の思い違いの可能性もあるし、どちらが正しいかと言ってもあまり意味はない。植松被告本人が「借りたお金は返したので、返してないというのは誤りだ」と言っていることは明記しておこう。

〔追補3〕ここに掲載した公判での証言を含め、この事件の裁判の記録の全貌をその後、書籍にまとめた。ぜひそれを読んでいただきたい。

『パンドラの箱は閉じられたのか』創出版 2020年6月刊

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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