創部丸7年の初出場・啓新ものがたり(後編) センバツの話題その4
2012年の春からずっと実戦で鍛えられた1期生の1年生たちは、どんどんたくましくなっていった。なにしろ、経験はどこよりも積んでいるのだ。12年の10月には学校のそばに雨天練習場が完成し、創部初年度であわや秋の北信越へ、というところまで健闘した。2期生が入学した13年は、夏秋の1勝ずつにとどまったが、14年、3期生の入学で3学年がそろうと、学校の裏には寮もできた。さらに、福井市に隣接する坂井市丸岡に建設中だった専用グラウンドも、夏前に完成。スタッフと部員が、1年がかりで外野の6000平方メートルに敷き詰めた天然芝が自慢だ。
1期生の集大成となるその14年夏は、のちに甲子園でベスト4入りする敦賀気比を、9回表に一時5対4と逆転。結局、その裏に逆転されたが、「甲子園で勝った大阪桐蔭以外で、気比をあそこまで追い詰めたチームはウチだけじゃないですか」と大八木監督は当時、手応えを感じていたものだ。事実、エースを含めて夏のベンチ入りメンバーが6人残った14年秋は、福井の3位決定戦に勝利して初めての北信越大会に出場している。さらに16、17年春にも北信越に出場。その間牧丈一郎(現阪神)がプロ入りするなど、いつ甲子園に出てもおかしくないだけの力をつけていた。
ないないづくしのスタート
ただねぇ……と苦笑するのは、植松照智監督である。
「2学年上には牧というエースが、1学年上には上ノ山倫太朗という投打の軸がいました。ですがいまのチームは、飛び抜けた選手もいなければ、個人の能力もないままスタートしました。ないないづくしだったんです」
植松監督は、大八木前監督の、相洋高時代の教え子である。関東学院大卒業後、10年間東京で会社員を務めていたが、前監督に口説かれ、またもともと指導者志望だったこともあって13年、部長として赴任した。昨年4月には、大八木氏の勇退を受けて監督に就任。高校・大学と植松監督の2学年下だった山下晃太部長がサポートする。
ないないづくしのチームを、どう育てたのか。植松監督はいう。
「基本は前監督の教えを踏襲しますが、新チームからは、任せるところは選手たちに任せてみたんです」
たとえば夏休みには、対外試合よりもまずは野球を知り、技術を習得するため、紅白戦を多く行った。穴水芳喜主将と濱中陽秀副主将が、それぞれチームを編成して対戦する。試合中の采配も選手任せ。負けたチームにはペナルティーがあるから、どちらも真剣だ。ネット裏で見ている植松監督は、内心「そこは違うだろう」ともどかしく感じることもあったが、選手に任せた以上はグッとこらえて口を出さなかった。すると、だ。試合を重ねるにつれ、局面局面で選手たちの判断力、対応力が目に見えて上がってきたのである。
「担任として授業で感じていたんですが、指示をしなくても自分たちで考えられる子が多かった。それが、紅白戦での吸収力になったようです」(植松監督)
ノーゲームの再試合にも集中力
紅白戦ながら、真剣勝負の経験を経て、図太くもなっていった。福井の3位決定戦では、若狭を相手に4対0とリードしながら、6回裏1死で雨脚が強くなり、成立寸前でノーゲームとなった。勝てば北信越大会出場、ひいてはセンバツ出場につながる大事な試合である。リードしながらのノーゲームで、ガクッときてもおかしくない。そもそも植松監督自身、
「選手たちには"切り換えよう"といいながら、あまりにもいい展開だったので、自分が一番がっくりきていたんです(笑)。でも選手たちは、屁とも思っていなかったようですね。中1日の再試合も集中力を持続して、延長10回サヨナラ勝ち。あの試合が、ひとつのきっかけだったと思います」
そして福井の3位で滑り込んだ北信越では、ミラクル逆転劇などを演じながら準優勝するのだから、再試合での勝利は大きな転機だったかもしれない。実は北信越大会前、練習は十分とはいえなかった。地元で国体が開催されたため、雨天練習場やグラウンドは出場チームの練習会場となり、さらに部員は大会の補助員を務めたためだ。それでも、「たとえば小園(海斗・報徳学園、現広島)の守備練習を目の前で見たり、得たものも大きかった」と山下部長がいうように、ここでも旺盛な吸収力が発揮されたかもしれない。
さあ、センバツだ。初戦の相手は、過去に全国優勝経験もある桐蔭学園(神奈川)。
「桐蔭の松本夏也部長は以前、私の母校(相洋)にいらして、私も国語の授業を受けていたんです。抽選会の前日にお会いしたとき、"ぜひ、対戦させてください"と話したんですよ。当たるべくして当たった、といいますか……」
と植松監督。初戦は第5日第3試合。昨年夏に見学した甲子園はもう、あこがれるだけの舞台じゃないぞ。