2022年は選挙の年だから日本になぜ政権交代が起きないのかを考える
2022年は世界で選挙が注目される年になる。3月9日に大接戦の韓国大統領選挙があり、政権交代が起きるかどうかが注目される。その結果は日韓関係にも影響する。4月10日から24日までフランスでは大統領選挙が行われ、現職のマクロン大統領が再選を賭けた戦いに挑むが、極右勢力が支持を伸ばしており状況は流動的だ。
7月10日には先の総選挙で絶対安定多数を確保した岸田政権が、参議院選挙で盤石な体制を維持できるかが問われる。そして米国ではアフガン撤退で支持率を下げたバイデン米大統領が二期目を狙えるのかどうか、11月8日に次の大統領選挙の命運を決する中間選挙がある。
日本の参議院選挙と米国の中間選挙は、それで政権交代が起こる訳ではないが、しかし野党が勝利すれば政権運営は極めて難しくなり、次の選挙で政権交代の公算が大きいため権力者は必勝の覚悟で臨まなければならない。
岸田自民党は先の総選挙で絶対安定多数を確保したと書いたが、しかし公明党と合わせても得票数は投票者の5割を下回り過半数を得ていない。つまり有権者が投票した票の過半数は野党各党に流れた。仮に野党が1つであったなら政権交代が起きていたところだ。
実は自民党が誕生した1955年以来、ほとんどの選挙で有権者は自民党に過半数の票を与えていない。にもかかわらず自民党は与党となり政権交代は起きなかった。その理由の1つは野党が1つにならないことにある。
自民党が過半数を超える票を得ていないのに万年与党を続け、日本に政権交代が起きなかった秘密を、11月から少しずつブログに書いてきたが、今回はそのまとめを書くことにする。
私の見方は私個人の経験に基づくもので、学者や政治家の見方と異なる。私は政権交代が起きなかった理由を東西冷戦が生み出した日本の国家戦略にあると見てきた。国家戦略とは吉田茂が敷いた「軽武装・経済重視路線」のことだ。それが政権交代しない仕組みを作り出し、政権交代しないことで日本は高度経済成長を実現した。
しかし冷戦は30年前に終わった。従って政権交代しない仕組みによって経済を成長させることもできなくなった。そして冷戦の終焉と同時に日本経済の没落が始まり、その没落を今や誰も止めることができない。
そこで私が政治取材を通して知りえたことを整理し、次の時代の政治を考える材料にしてもらいたいと思う。第二次大戦の敗戦から10年後の1955年、自民党と野党第一党の社会党が対立する「55年体制」が生まれた。
同じ年に労働運動の中央組織であった「総評」は社会主義社会を目指す政治闘争をやめ、労働者の賃上げに力を入れる「春闘」を運動の中心に据えた。当時の大蔵省は自民党の政治資金を大企業が、社会党の政治資金は労働団体が面倒を見る仕組みを作った。
「55年体制」の最初の総選挙は岸内閣の1958年に行われた。その3回後の池田内閣の1963年の総選挙まで、自民党は有権者の過半数の票を獲得していた。ところが佐藤内閣の1967年の総選挙からは過半数を超える票を獲得できなくなる。にもかかわらず自民党は与党であり続けた。
社会党が過半数を下回る候補者しか選挙で立候補させなかったからである。社会党は1958年だけは過半数を超える候補者を立候補させ政権交代を狙った。しかしその選挙に敗れると、政権交代より憲法改正の発議を阻止できる3分の1の議席を狙うようになる。
1958年の総選挙で社会党は過半数(234)を超える246人の候補者を立候補させたが、次の1960年の総選挙では過半数を下回る186人しか立候補させない。それが70年代には160人前後、80年代には140人台と候補者数は減り続けた。全員が当選しても政権交代が起きないようにしていたのは社会党だ。
一方で共産党は組織維持のため全選挙区に立候補者を立てた。社会党と共産党は憲法改正阻止で共闘するが、政権を自民党から奪うために協力することをしない。互いに足を引っ張り合う。だから有権者が野党に過半数を超える票を投じても政権交代は起きない。
では政権交代を狙わない野党になぜ有権者は過半数を超える票を与えるのか。そこに吉田茂が敷いた「軽武装・経済重視」の国家戦略がある。吉田は「米国に軍事で敗れたが外交で勝つ」が口癖だったという。吉田はメディアを動員して国民に憲法9条の理想を教え込み、野党に護憲運動をやらせ、米国に日本が平和国家であることを見せつけた。
米国が日本への軍事要求を強めれば、たちまち政権交代が起きて親ソ派の社会党政権が誕生すると思わせ、米国の軍事要求をけん制した。しかし社会党は憲法改正阻止を狙っているだけで、政権交代に足る候補者を立候補させていないのだから、国民が過半数を超える票を野党に投じても政権交代が起こるはずはない。それに米国はまんまと騙された。
こうして日本は朝鮮戦争とベトナム戦争に出兵せず、後方支援を担うことで戦争特需の恩恵にありつき、工業国家としてスタートを切る。「軽武装・経済重視」の日本は「貿易立国」を国是とし、工業製品の輸出で経済成長を図った。その日本の輸出攻勢で最も被害を受けたのが米国である。
家電や自動車の輸出攻勢で米国の製造業は倒産・廃業に追い込まれ、日本は失業を輸出していると批判された。第一次世界大戦以降世界一の債権国であった米国が、対日貿易赤字とベトナム戦争による財政赤字の「双子の赤字」に苦しみ、1985年には世界一の債務国に転落する。代わって世界一の債権国に躍り出たのは日本だった。
米国にとってソ連の核より日本経済が大きな脅威となった。一方でベトナム戦争に敗れた米国は反共イデオロギーを見直し、民主主義を重視するようになる。反共親米国家でも民主主義でない政治体制を認めない。フィリピンのマルコス大統領は「独裁20年」を理由に米国によって政権から引きずりおろされた。
その時点で日本の自民党政権は30年を超える単独政権を維持していた。1985年に米議会調査団が日本の政治システムを視察に訪れる。日本の若手政治家、政治学者、政治記者と会合がもたれ私も参加した。会合で彼らは政権交代のない政治システムを理解できない。我々もうまく説明ができない。民主主義政治を巡る日米の断絶を私は強く感じた。
政権交代可能な政治体制づくりがそれから始まる。初めに動いたのは自民党の金丸信と社会党右派の田辺誠だった。経団連会長の平岩外四と秘密の会合を行い、自民党田中派と社会党右派で新党を作り、田中派以外の派閥が自民党に残る案が検討された。新党は分配重視の政策を採用し、自民党は成長重視の政策を採用する案だった。
しかし直後に金丸が東京地検特捜部に脱税で摘発されたためこの計画は幻に終わる。次に登場したのが小沢一郎だ。政権交代可能な政治を作るには選挙制度を英国や米国と同様の小選挙区制に変える必要があると主張した。しかし小選挙区制導入には自民党からも反対の声が上がり、社会党左派や共産党も強く反発した。
さらに小沢は政治の対立軸を米国と同様に「小さな政府」と「大きな政府」にしようとした。それまでの自民党と社会党は何でも国にやらせる「大きな政府」で一致していた。小沢は1993年に『日本改造計画』を出版して米共和党の政策である「小さな政府」の考え方を紹介する。
「大きな政府」は結果として官僚機構を肥大化させ、官僚が主導する政治になる。それより民間の力を活用する「小さな政府」で政治主導の政治を実現しようとしたのだ。しかし官公労の影響力が強い社会党にはこれにも反対の声が強かった。
もう一つ小沢がやろうとしたのは、護憲か改憲かの対立を乗り越える事だった。前述したように「55年体制」は社会党が政権交代を狙わず、護憲に力を集中したところに特徴がある。それは吉田の「軽武装・経済重視路線」から導き出された政治構図だ。
その吉田の戦略は米ソ冷戦を前提にしていた。ところが1991年にソ連は消滅、米国が唯一の超大国になった。そしてソ連崩壊前に起きた「湾岸戦争」で、米国のブッシュ(父)大統領が国連軍に準ずる多国籍軍を結成したのに、日本は憲法9条があるために参加できず、国際社会から厳しい批判が浴びせられた。
それを解決するため、小沢は憲法9条を護りながら国際協力も行う「国連待機軍」の創設を訴えた。自衛隊は日本を守るための実力部隊だが、国際社会の紛争を終わらせて平和を維持する活動には「国連待機軍」を派遣しようというのだ。これは憲法9条に抵触しない。
小沢はこれで護憲を訴えてきた社会党を説得した。民主党と小沢が率いる自由党が合流する時、旧社会党のリーダー的存在だった横路孝弘は「国連待機軍構想」を受け入れ、菅直人も一時は「国連待機軍構想」への支持を表明した。この構想には日本外交を日米同盟一本ではなく、国連を中心とする外交を加えて2本柱にする思惑も込められていた。
しかし「国連待機軍構想」への支持は広がりを欠いた。国民は相変わらず冷戦時代の護憲思想から抜けられず、日本政府の米国依存も変わることはなかった。肝心の米国でも、国連軍に準ずる多国籍軍を結成したのはブッシュ(父)ただ一人で、クリントンもブッシュ(子)も多国籍軍ではなく、米国に従順な国々と有志連合を結成して戦争するようになった。
一方で米国防総省は1992年に国防計画指針(DPG)という冷戦後の安保戦略を決定した。その中で米国はロシア、中国、ドイツ、日本の4か国を敵性国と名指しした。米国の世界一極支配の障害になるというのだ。
それを受けてクリントン政権のジョセフ・ナイ国防次官補は、「日米同盟を維持し日本に米国依存の仕組みを作れば、日本を脅して米国に有利な軍事的・経済的要求を呑ませることができる」と述べた。
それ以来、クリントン政権は「年次改革要望書」を日本に送りつけ、日本経済の変革を促す。終身雇用制や年功序列賃金をやめさせ、労働力の流動化を図るため労働者派遣法が改正され、非正規労働者が増大することになった。また郵政民営化や司法制度改革などが相次いで要求され、日本の官僚の仕事は米国の要求に対応することが優先された。
そうした中で、小沢の「国連待機軍構想」が実現するかと思わせる出来事が2007年にあった。その年の参議院選挙で安倍自民党が小沢民主党に大敗し「衆参ねじれ」が生まれた。民主党の小沢代表は安倍晋三から交代した福田康夫総理に「大連立」を持ち掛け、見返りに「国連待機軍構想」を呑むよう迫った。
福田総理はそれを受け入れ、外務省に検討を指示した。米国一辺倒の日本外交が米国と国連の2本柱になるかもしれないと思わせた瞬間である。しかし民主党の中から反対論が噴出し「国連待機軍構想」は幻に終わった。
鳩山由紀夫、菅直人、仙谷由人らが「大連立」に反対し、次の総選挙で政権交代を実現すると息巻いたが、当時の私には国家統治の経験のない素人が大言壮語しているように見え、この程度では民主党政権が誕生しても政権運営はうまくいかないとブログに書いた。結果はその通りになった。
民主党政権が誕生した時、中国の経済学者が興味深い発言を行った。「我々に独裁と市場経済は両立出来ると教えたのは日本人だ。それなのになぜ日本は政権交代をしたのか」と言ったのだ。政権交代しない方が効率的に経済目標を実現できると中国政府に教えた日本人がいたということだ。
その時、米国が批判する中国の「国家資本主義」のルーツは日本ではないかと私は思った。社会党が政権交代を狙わずに護憲運動に集中し、万年与党の自民党とのコンビで生み出した高度経済成長の成功例を日本人が中国の経済学者に伝授したのではないか。
そのやり方で中国は経済成長を図り、日本経済を追い抜くだけでなく、米国経済を凌ぐ勢いを見せている。ジョセフ・ナイが言うように安全保障で米国に依存するしかない日本は、経済でも次々に譲歩を迫られ、今や没落の一途だが、それを反面教師にしているかのように中国は軍備を増強し、決して米国の要求に屈しない。
これを見ると、冷戦構造を背景に社会党が政権交代を狙わずに護憲運動に集中した結果、日本は経済的成功をおさめたが、冷戦が終わった途端にそれは一転し、今度は米国が日本人の護憲思想を利用して米国の軍事力への依存を強めさせ、それによって経済的にも米国に従属するしかない構造を作り出した。
つまり冷戦時代と冷戦後の時代で日本人の護憲思想はまったく対照的な役割を演じている。冷戦時代に吉田が作り出した「軽武装・経済重視路線」の中核にあったのは護憲だが、冷戦後の時代にはそれに代わる次の国家戦略を打ち出さないと日本の没落は止まらない。
政権交代可能な仕組みを作るところにその入り口はあると私は思っていたが、民主党政権の失敗でそれも遠のいた。しかし現実は有権者の票の過半数が今でも野党に流れ、昔のように自民党が過半数の支持を集めているわけではない。何かを変えれば政権交代が起こる土壌はあるのだ。
何かとは何か。野党が1つにまとまる事なのか。それとも護憲と改憲の対立を乗り越える事なのか。あるいは政権交代を繰り返す先進諸国のように、与野党が外交・安保政策を一致させ、福祉や経済で対立軸を作り出す事なのか。その何かを探り当てることが2022年の日本政治の課題ではないか。
先進民主主義国で政権交代しない国はシンガポールと日本だけだという。ただシンガポールは「明るい北朝鮮」と呼ばれるほど独裁的な国だ。しかし政権は選挙で選ばれる。そして政権交代していない。どんな選挙なのかを見てみると、2015年の選挙では与党が有権者全体の64%を、野党が30%を獲得し、棄権は6%だった。
一方の日本では、先の総選挙で自公は有権者全体の27.7%、野党が28.3%を獲得し、棄権が44%だった。この数字を比較すると、シンガポールに政権交代が起きないのは納得できる。しかし日本に政権交代が起きないのはとても不思議だ。
日本が民主主義国家であるのなら、やはり野党の本気度が足りないとしか思えない。冷戦時代の社会党の幻影に惑わされずに、野党は何かを探り当てることに本腰を入れるべきだ。皆さま良いお年をお迎えください。