労働時間改革、三つの論陣 ポイントは、上限規制と対象範囲
産業競争力会議の改革の内容
今世間を騒がせている政府・産業競争力会議の長谷川議員提案。「残業代ゼロ法案」とも呼ばれるが、「労働時間と賃金の関係」を切り離すことが提案の趣旨だ。米国の「ホワイトカラーイグゼンプション(以下WE)」制度に近い制度だとされる。
今回の記事では、これを各識者がどう見ているのか、議論のポイントを押さえていきたい。検討に入る前に、まずこの「長谷川ペーパー」の内容を確認しておこう。
報告書は「基本的な考え方」として、次の四点を挙げている。
多様で柔軟な働き方を可能にするため、新たな労働時間制度を創設する。
業務遂行・健康管理を自律的に行おうとする個人を対象に、法令に基づく一定の要件を前提に、労働時間ベースではなく、成果ベースの労働管理を基本(労働時間と報酬のリンクを外す)とする時間や場所が自由に選べる働き方である。
また、職務内容(ジョブ・ディスクリプション)の明確化を前提要件とする。目標管理制度等の活用により、職務内容・達成度、報酬などを明確にして労使双方の契約とし、業務遂行等については個人の自由度を可能な限り拡大し、生産性向上と働き過ぎ防止とワーク・ライフ・インテグレーションを実現する。
また、成果ベースで、一律の労働時間管理に囚われない柔軟な働き方が定着することにより、高い専門性等を有するハイパフォーマー人材のみならず、子育て・親介護世代(特に、その主な担い手となることの多い女性)や定年退職後の高齢者、若者等の活用も期待される。
要約すると、仕事の内容を特定してそこに成果目標を定めた上で、賃金と労働時間の関係を切り離す。そのことで、正社員の多様化が進み、労働者の生活との調和が進む、といったところだろうか。
まだわかりにくいと思うので、もう少し噛み砕こう。つまり、仕事の中身の明確化や目標設定を徹底した成果主義の導入によって、あたかも「業務請負」や「業務委託」のように、達成した仕事の分だけ給与をもらえるようにしよう、ということだ。そして、こうすると社員は目標に応じて働き方を選べるので、多様化や生活との調和が進むという考え方である。
長谷川ペーパーはその上で、AタイプとBタイプの導入を主張する。
Aタイプ(労働時間上限要件型)
労使合意と、本人の希望選択を条件として、導入される。
Bタイプ(高収入・ハイパフォーマー型)
対象者は、高度な職業能力を有し、自律的かつ創造的に働きたい社員が、任意に本制度の利用を選択する(本人希望の尊重)。こちらも労働者の選択による、とされている。
特に「Aタイプ」は、社会を騒がせている。高度な技術や高い年収だからというわけではなく、誰でも適用できるのからだ。そのため、「普通の社員」が全般的に「残業代ゼロ」の対象になる可能性があるといわれている。
一方、提案では、労働者の希望や労使合意を前提としているのだが、企業から「同意してくれ」といわれれば簡単に有名無実化するだろう。
また、労働時間規制の強化を同時に図るとしていながら、その内容は「労働時間の実績に関わる情報開示の促進」だけで、まったく取締りを強化する内容ではない。
これらの懸念があるからこそ、野党だけではなく、公明党の議員からも強い疑問が示されているのである。
では、識者はこの労働時間改革についてどのように考えているのだろうか。
三つに分かれる識者の反応
労働時間改革については、三つの論陣が形成されつつある。
(1)労働時間規制を守り、厳格化しようとする勢力(労働時間規制派)、(2)労働時間と賃金の関係は切り離すべきだが、労働時間に上限規制を設けるべきだとの考え(条件付き改革派)、(3)規制緩和さえすれば、ほとんどの問題が解決するという立場(規制緩和派)。それぞれ見ていこう。
(1)労働時間規制派
(1)の立場は、労働組合や労働側弁護士、労働NPOなどが中心を占めている。日本の長時間労働は世界トップクラスであり、過労死・自殺も減少していない。この長時間労働の弊害をなくすためには、むしろ規制を厳格化していくべきだとの考えだ(私もこちらのグループに属することになるだろう)。
(2)条件付き改革派
次に、(2)は、WEの必要性を主張しているが、その際に単純な「規制緩和」ではなく、さまざまな条件を課している。この立場の有力な論者は濱口桂一郎氏である。
今回の改革についての濱口桂一郎氏の見解は、以下の三点。
労働時間と賃金の過剰なリンケージははずすべきである。
現在の割増残業代制度の下では、「昼間たらたら働いて、夜いつまでも残っている人間のほうが高い給料をもらっていくことになってしまう」ので、長谷川ペーパーが述べているように、労働時間と賃金の関係は切り離すべきだという。
この主張だけを見ると、濱口氏は産業競争力会議に賛成のようにも見える。実際に、同氏はこの会議にゲストとして招かれ、意見も述べられている。だが、濱口氏の主張には続きがある。
労働時間の上限規制をすべきである
一方で、日本の労働時間規制は、割増残業代制度はあるのに、労働時間そのものには上限規制がない。これが過労死問題の真の原因である。だから、労働時間の上限規制をすべきである。
つまり、「長く働いた人が得をする」という構図をなくし、かつ労働時間に上限規制を設けることで、割増残業代以外の方法で労働時間短縮を実現しようというのだ。
ワークライフバランスなどを持ち出すせいで、議論が混乱している
さらに、政府提案のように、労働時間と賃金の関係を切り離すことが子育てしやすくなることにつながるという主張は、議論を混乱させるだけだという。「労働時間と報酬の関係」が主眼であるにも関わらず、ワークライフバランスを持ち出すことで、「嘘だ」と無用な反発を買っているのだという指摘である。
この議論を見てくると、WEに賛成しているからと言って、必ずしも「規制緩和派」ではないことがわかるし、この制度で子育てやWLBが進むなどとも考えてもいない。
濱口桂一郎氏はEUの労働法政策を専門にしており、日本でも有数の「労働政策通」である。濱口氏の主張は、まさに「政策」としての整合性を求めており、非常に論は精緻である。「真の制度改革」を求める立場であるといってもよいだろう。
一方で、人事畑の著名人である海老原嗣生氏も欧米の制度を参照し、濱口氏に近い指摘をしている。
海老原氏によれば、欧米のように、ある程度以上の職能を養った労働者について、ホワイトカラーイグゼンプションを適用し、同時に「インターバル規制」と呼ばれる制度(これはEU指令により、欧州各国に義務付けられている)を導入すべきだという。
この制度は、一出勤日につき11時間の連続した休息を義務付けるというもので、過労死防止に有効な制度である。
さらには、フランスの制度に倣って、休日日数を定め、企業に支給を義務付けることなども提案している。
要するに、日本の働き方を変えるというなら、ただ「労働時間と報酬の関係」を切り離すだけでは不十分で、そのほかの制度も他国に倣って同時に整備すべきだというのである。
「企業側」に立てば、「労働時間と報酬の関係」を切り離し、より「成果」に応じた給与体系にすることで、能率を上げようと考えることは理解できる。しかし、海老原氏のように、その立場に立っていても、ただ規制を緩和すればよいとは考えていない識者もいるのである。
これに対し、長谷川ペーパーでは、肝心の労働時間の上限規制にはふれられてさえおらず、「休日に上限を設ける」としているが、それも何日なのか、代償措置をどうするのかなど、何も語っていない。濱口氏もこの点を自身のブログで批判しているし、海老原氏の主張とも大きく食い違う。
以上のように、WEを認める立場の多くの識者も、今回の政府案は安易には賛成できない内容なのである。
(3)規制緩和派
では、賛成しているのはどのような論者たちか。
いうまでもなく、長谷川氏自身である。長谷川氏は武田薬品工業代表取締役社長であり、経済同友会 代表幹事も務めている。「財界側の代表」といってもよいだろう。
私は「ブラック企業」の議論の中で、度々こうした「自由化」が日本の産業界にもよい結果をもたらさないだろうことを警告してきたが、彼らの立場からすれば、「目先の成果」に目を奪われたとしても仕方がないのかもしれない。
もちろん、識者の中にも今回の改正案を評価している論者もいる。例えば、労働法学者の大内伸哉氏である。大内氏は政府の国家戦略特区関連の委員も務めている。政府の雇用改革の「ブレーン」の一人である。
同氏は自身のブログの中で、ホワイトカラーイグゼンプションについて次のように述べている。
「「残業代ゼロ」は,民主党が言い出したものだと思いますし,ホワイトカラー・エグゼンプションの本質を客観的に示していると記者の方は思っているのかもしれませんが,私はそう考えていません。これは,「残業代ゼロ」というよりも,残業(法的に正確に言うと,法定労働時間を超える時間外労働)という概念をなくし,労働者の報酬を成果によって測っていこうとする試みなのです」。
大内氏の議論の特徴は、WEを労働時間制度ではなく、「賃金制度とのかかわりの方がむしろ強い」と指摘しているところ(『キーワードから見た労働法』参照)である。自分の裁量で自由に仕事をするのであれば、残業代をはらう必要はないし、むしろ、バリバリ働きたい人にとっては「邪魔」にさえなるという。
今回の長谷川ペーパーには、この大内氏の主張が大きく取り上げられたものと思われる。従来、財界は裁量が強く、「労働時間管理が難しい労働者」にWE適用を求めてきた。今回は、大内氏のように、一般労働者でも目標管理ができ、「成果給」になじむならば、すべてWEの対象としようというわけだ。
(そして、WEを「労働時間の問題」としてとらえないからこそ、「労働時間管理が難しい」という論法は後景に退くことになったのであろう)。
一方で、健康管理や労働時間の上限についてはほとんど語られない。それも、「裁量」がある労働者であれば、自己管理の責任だとされるのである。大内氏の議論はこのように徹底しているので、WLBや子育てなどの話も、当然出てこない。ただ、この考え方の怖いところは、過労死なども含めて「自己責任」とみなしかねないところだ。じっさい、大内氏はブラック企業について次のように述べている。
「正社員として働くということは、「いつでも」「 どこでも」、「何でも」するということであり、それは覚悟しているはずのことです。そうした働き方を選択したことによって自分に降りかかるかもしれない問題について事前に情報が与えられていて、そのうえで正社員になると決めたのであれば、その企業がたとえブラック企業と呼ばれるようなところであっても、仕方ありません。なぜならそれは、自分の選択ミスだからです」(『君の働き方に未来はあるか?』)。
今回の政府案も「同意」を強調していた。しかしこれは、「同意したのだから、どんなに酷くても自己責任」ということになりかねない、危うい発想である。労働時間の上限規制に対しても、大内氏の論理からいえば、なるべく設けない方が良いということになろう。
「本当の論点」は何か?
以上、(1)「労働時間規制派」、(2)「条件付き改革派」、(3)「規制緩和派」、それぞれの主張を概観してきた。
これらの議論から、政策のポイントを整理すると、下記の四つになるだろう。
a.労働時間と賃金の関係を切り離す
b.過労死防止のために労働時間の上限規制を設ける
c.対象をどこまで広げるのか
d.WLB促進につながるのか
これを、それぞれの立場に則してみてみよう。
(1)「労働時間規制派」
a.労働時間と賃金の関係を切り離す:反対
b.過労死防止のために労働時間の上限規制を設ける:賛成
c.対象をどこまで広げるのか:狭く
*すでにWE類似の制度があるので、それを狭める
d.WLB促進につながるのか:つながらない
(2)「条件付き改革派」
a.労働時間と賃金の関係を切り離す:賛成
b.過労死防止のために労働時間の上限規制を設ける:賛成
c.対象をどこまで広げるのか:狭く
d.WLB促進につながるのか:bがあればつながる
(3)「規制緩和派」
a.労働時間と賃金の関係を切り離す:賛成
b.過労死防止のために労働時間の上限規制を設ける:消極的
c.対象をどこまで広げるのか:広く
d.WLB促進につながるのか:bがなくてもつながる
これでだいぶ対立・賛成するポイントが見えてきただろう。
次に、これらの「勢力図」を考えてみたい。三者の組み合わせは、
「(1)+(2) 対 (3)」という構図にもなるし、
「(1) 対 (2)+(3)」という構図にもなりえる。
「a.労働時間と賃金の関係を切り離す」を基軸にすれば、「(1) 対 (2)+(3)」という構図が成立するが、「b.過労死防止のために労働時間の上限規制を設ける」によれば、「(1)+(2) 対 (3)」となるわけだ。
こうしてみると、今回の政府案の問題は「a.労働時間と賃金の関係を切り離す」こと以上に、「b.過労死防止のために労働時間の上限規制を設ける」ことについてきわめてあいまいだというところにあるのである。
対象範囲の問題
ところで、もう一つ重要な論点が残っている。「c.対象をどこまで広げるのか」である。
長谷川ペーパーでは、この点について、一般の労働者にまで拡大しかねない提案をしている。
この点からも(2)の識者たちは反対せざるを得ないはずだ。冒頭で示した「考え方」を振り返ってほしい。
「職務等に限定のある「多様な正社員」など、裁量労働制の対象外だが職務内容を明確に定められる者(ex.営業職)について、労働時間ベースではなく、ジョブ・ディスクリプションに基づき、成果ベースでワーク・ライフ・インテグレーションの下で働くニーズ」。
これでは、何でもありといえるような内容である。
裁量や専門性もない「普通の社員」にWEが導入されたら、それこそ「無限・過労サービス残業」が強要されかねない。
この点については、前述の大内氏も、「徹底して自律的に働くことを希望する者が、ホワイトカラー・エグゼンプションの適用対象者とされるべきなのです」と述べている。大内氏のイメージでも、対象者はかなり少なくなるようである。しかし、この「希望する者」というのがポイントだ。
大内氏は、適用対象は狭まるべきだと考えていながら、法制度での規制には批判的である。だから、「希望する者だけ」が対象だという論理になるのだろう。そこには、自由市場での行動が、結果としての最適を招くという考えがあるように見える。
また、法律で適用対象者を「本当に自律的な労働者」に絞り込むと、裁量労働制や管理監督者のように、手続きや要件が厳しくなる。なるべく自由に企業が使えるように、という配慮もうかがえる。だから、理念的には「絞り込まれた労働者」であるとしながらも、制度設計は「誰でもあり」のようなものが容認されてしまったのではないだろうか。
その結果、本当に裁量のある労働者は働きやすくなると想定されているが、やはり、普通の労働者の被害が拡大する恐れがあるのだ。
なぜなら、職場には「権力関係」(これは経済学者は無視しがちである)が存在するので、実際には「希望」していない労働者も、無理やり「自律的」に働かされることがある。また、目標設定も「労働者の同意」が必要だとされていても、実際には無理なノルマを課せられてしまうものである。
これは、普通に働いていれば実感するところであろう。労働社会学者がつとに指摘してきた事実であるが、日本では正に、この「目標設定」が無理なところに設定されるために、裁量があろうとなかろうと、労働時間が増加する傾向にある。
しかも、無理な目標設定は、社内競争の中で、なかば自発的に行われる。こうした現象を社会学では「強制された自発性」と呼ぶ。社内の権力関係を考慮にいれると、「自律性」や「自発性」は、実は労働者の立場が強いことを意味しない。
また、本当に「自由な働き方」で成果を出してほしいと思う企業ばかりではなく、中にはブラック企業のように、この制度を悪用し、「目標設定」を無理やり定めて「残業代ゼロ」で酷使しようとする企業も後を絶たないだろう。
だからこそ、報酬や社内の地位や専門性など、もし導入するにしても、法制度で厳格に「範囲」を絞りこまなければならないのだが、今回の政府案はその点にきわめて消極的である。
(2)「条件付き改革派」の識者たちは、こうした「c.対象をどこまで広げるのか」の観点からも、今回の政府案には反対すべきなのである。
経営側の観点に配慮するのであれば、次のようにも説得が可能である。そもそも、あえてWEを導入しなくとも、成果と報酬を結びつける方法はたくさんあるという事実だ。時給単価が安いままいくら残業しても、業績評価によって昇進したほうがずっと「得をする」ように賃金体系をつくればよいのである。そうすれば、成果も出さずにだらだら残業して稼ごう、という話にはならないはずだ。弊害ばかりの規制緩和よりも、こうした「経営努力」こそ、求められているのでなかろうか。
(これも、もちろん裁量性や専門性があり、成果給になじむ仕事に限った話であるが)
現在の勢力図
以上を踏まえ、今の議論の趨勢を見えていると、(1)「労働時間規制派」の批判が厳しく、WEに対するいかなる賛成も許されない、というムードがある。その結果、(2)「条件付き改革派」が(3)「規制緩和派」といっしょくたに攻撃されがちで、結果として(2)と(3)の違いが見えなくなってしまっている。
わたしはこの構図は生産的ではないと思っている。「a.労働時間と賃金の関係を切り離す」ことのみに着目するのではなく、「b.過労死防止のために労働時間の上限規制を設ける」という部分に目線を移せば、むしろ(1)と(2)の方が、目的は一致しているのだ。
また、「c.対象をどこまで広げるのか」について、むしろ正面から(1)と(2)の識者たちが議論していくことで、今回の案は到底認められないということがはっきりしてくるだろう。
残業代規制なくして、被害補償なし
最後に、私自身の意見を述べて本稿のまとめにしたい。
私はWEの導入に反対である。いかにエリート労働者であっても、結局「強制された自発性」という職場の権力関係には逆らえないので、無理な目標設定を導入されてしまう危険があるからだ。
また、「労働時間の上限規制」があれば、割増残業代は不要だという議論もおかしいと思っている。
上限規制が設定されたとして、上限を超えた場合にどんなペナルティーを企業に課すのだろうか。
確かに、過重労働の防止の観点からいえば、金銭の問題ではなく労働時間の総量規制こそが、「政策的な本質」ではあろう。しかし、法律違反をした企業の被害者が権利を回復するとき、残業代請求ほど実効性のあるものはない。
今現在の皆さんの職場について考えてみてほしい。パワーハラスメント、時に暴力さえも、職場ではまかり通る。長時間労働の命令が違法だとしても、これを「違反だ」と告発することは難しく、結局鬱病になるまで働いてしまうのではないだろうか。
そして、パワハラや鬱病になったことを裁判で訴えたところで、訴訟で取れる慰謝料はたかが知れている。場合にもよるが、100万円にいくことはあまりない(ただし、労災制度などいろいろな可能性があるし、とにかく場合によるので、裁判自体はためらわないでほしい)。しかも、認められるまでにとてつもない苦労をしなければならない。
逆に、長時間労働の被害者は、残業代だけは多額に請求できることが稀ではない。これは、証拠さえあれば、すぐに請求できるし、労基署を使って圧力をかけることも可能なのだ。
(ちなみに、今回の長谷川ペーパーでは、労基署による監督を強調しているが、労基署が取り締まれるのはこの「残業代」の部分くらいなので、この「武器」を奪った上でいくら「監督強化」といっても無意味である)。
上限規制をつくっても、ほとんどの企業は守らないだろうし、その違反を訴えても、割増残業代が請求できないなら、十分に被害は回復しない。
仮に、パワハラや労働時間上限違反について、「懲罰的賠償」を認めようなどという話になると、それこそ巨大な法改正が必要で、到底すぐには実現しないだろう。
結局、「使い潰し」の被害者にとって、残業代請求は、今のところ「最大の武器」の一つなのである。だから、割増残業代制度を軽視する姿勢は、現場の実情とのずれを感じざるを得ない。
いずれにせよ、こうした現場の実情や、経営者にとっての実情も踏まえ、より建設的な議論をすることは、可能だろう。今回の政府案をただやみくもに批判するだけではなく、新しい労働政策を求める、より合理的な勢力が「討論」の中から形成されるべきときである。