同じ冬の震度7でも、29年前の阪神・淡路大震災より能登半島地震の方が厳しい自然 死者の多くは70代
最大震度7の地震
震度7を最初に観測したのが、平成7年(1995年)1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)です。
兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の発生時、筆者は神戸市中央区中山手通りにあった神戸海洋気象台(現在は神戸地方気象台となり移転)に隣接する宿舎で寝ていました。
神戸海洋気象台の予報課長として神戸に赴任していたからです。上下動の揺れで目がさめた後、身体が横に叩きつけられる感じの揺れを感じました。
気象台は、神戸市沿岸部に細長く東西に延びる「震度7」の領域が切れているところにあり、「震度6強」でした。
令和6年(2024年)1月1日に石川県志賀町で震度7を観測した能登半島地震が発生しました(図1)。
兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)と能登半島地震は、同じ1月の大地震ですが、地震発生後の天気については大きな差があります。
地震発生後の雨や雪
兵庫県南部地震のとき、神戸海洋気象台では、観測も予報も一回も欠けることなく通常通りの業務を行っていましたが、1月22日に低気圧通過でまとまった雨の可能性がわかった20日からは「雨に関する情報(大雨情報ではありません)」などを発表して早めに警戒を呼びかけました。
兵庫県南部地震から5日目でも、山や崖に亀裂が入り、堤防や防潮堤も損傷を受けたままで、排水溝は瓦礫で詰まり、排水ポンプも正常作動が確認できない状況で、大規模な二次災害が懸念されていました。人命救助がまっさきに行われており、多数の救援物資は野積みで、屋根が壊れている家に住んでいる人、たき火をしながら野宿している人が多数いましたので、普段では考えられないことが次々に起きる可能性がありました。
1月22日の雨は、ほぼ予想通りで、神戸市や西宮市などでは土砂崩れや道路の亀裂が相次いでいますが、事前避難で人的被害はありませんでした。いろいろな防災関係者の努力の結果、大きな災害や不測の事態の発生を防ぎ、雨の翌日から(元に戻る復旧ではなく)本格的な復興が軌道に乗りました。
兵庫県南部地震のときは、地震発生5日後の雨であり、ある程度の支援が進んだときの雨で、気温も冬とはいえ、平年より高めに経過していました。それまでは、晴れて、気温は平年より高く、救援活動が順調に進んでいました。
しかし、今回の能登半島地震では、支援活動が本格化しないうちに雨や雪が降り続いています(図2)。
兵庫県南部地震では、0.5ミリ以上の雨が降ったのは、地震発生の6日目と7日目だけで、しばらくは雨が降っていません。
しかし輪島は、1月2日と3日の観測がないので不詳ですが、それ以外の日は、ほとんどすべてといっていいほど、降水量が0.5ミリ以上の雨か雪が降っています。
しかも、能登半島地震の8日目には4度を下回っています。
そして、1月24日の最高気温の予想が2度です。
地震で家屋が倒壊し、仮設住宅の準備ができないうちから寒さと雨や雪が襲ってきたのです。
死者の多くは高齢者
近年、個人情報保護の観点から、災害で亡くなられた方の性別や年齢は発表しなくなっています。
能登半島地震の場合は、石川県がとりまとめ、遺族の同意が得られた方のみ石川県のホ―ムページで公表しています。
1月18日までに石川県が発表した83名に、筆者が新聞記事から集めた21名を加えた104名の性別、年代別の死者は、図3のようになります。
この種の調査を行うと、男性の方が多くなるのですが、能登半島地震の場合は、男性が52名、女性が52名と同数です。
また、一番多いのが70代です。
令和元年(2018年)の台風19号と低気圧による死者の分析では、男性の方が女性より多く、60代が一番多くなっています(図4)。
このことは、高齢化が進んでいる能登半島で起きた災害ということも反映しているかもしれません。
また、10代以下の子供の割合が比較的多いのは、年末年始を祖父母のところで過ごそうとしていた人たちが、地震による家屋倒壊でなくなっていることを示しているのかもしれません。
図1の出典:気象庁ホームページ。
図2の出典:気象庁ホームページとウェザーマップ提供資料をもとに筆者作成。
図3の出典:石川県ホームページと読売新聞記事をもとに筆者作成。
図4の出典:饒村曜(令和元年(2020年))狩野川台風以来の大雨、令和元年の台風19号、近代消防、近代消防社。