「本日は晴天なり」マイクテストの文言の起源は175年前のスミソニアン協会
マイクテスト
一昔前は、運動会などが始まる時など、マイクをセットした後に最初に使う文言は「本日は晴天なり」でした。
現在は、マイクの性能が良くなり、マイクテストを行う必要がほとんどなくなり、「本日は晴天なり」ということは少なくなりました。
この文言の起源は、諸説ありますが、一番有力な説は、アメリカのスミソニアン協会が行った気象事業であるというものです。
スミソニアン協会
1835年(天保6年)、アメリカ政府はイギリスの科学者・スミッソン(James Smithson)の遺言により10万ポンドの寄付を受け、これを基にスミソニアン協会が創設されています。
そして、国立の学術研究機関としてワシントン市にある自然史博物館など、多くの公開施設を持っています。
スミソニアン協会は、アメリカの気象事業で大きな役割をしています。
アメリカで公的機関が気象事業をはじめたのは、19世紀の初めで、1812年(文政2年)に海軍医務局で気候観測が行われることなどがありましたが、各地の観測データを集めようとするのは19世紀の中頃からです。
日本では天保の大飢饉が起こるなど、世界的に異常気象によって農作物の不作が深刻な問題になっていた頃の話です。
この時、スミソニアン協会が作ったスミソニアン学館(現在のスミソニアン博物館)の幹事・ヘンリー(Joseph Henry)は、気象事業を大規模に実施するため、216人の観測者に測器を貸与して気象報告を集めています(表)。
日本に開国を迫るペリーが江戸湾の浦賀沖に出現する少し前の1849年(嘉永2年)のことです。
そして、電信会社(音声通信の「電話」がまだできておらず、モールス符号などを使う符号通信の会社)と特約して電報料なしで気象報告を集め、地図上にそれを表示してスミソニアン学館の参観者に縦覧させています。
つまり、「今朝のアメリカ各地の天気図」の公開です。
「電報料なし」というのは、通信会社が必ず毎朝行っている通信テストの文言を、その場所の簡単な天気にすることで実現できたことでした。
「○○では本日晴天」「〇〇では本日雨」などの文言が通信テストの文言となったのです。
これが、マイクテストで「本日は晴天なり」という文言が使われた起源とされています。
電信会社としては、通信テストの文言は簡単なものであればなんでも良かったのですが、スミソニアン学館にとっては、「今朝のアメリカ各地の天気図」という参観者に対する展示が一つ増えています。
気象業務が進んでいたフランスでは、1856年(安政2年)から電信で気象情報を集めるようになり、1863年(文久3年)9月1日からは全ヨーロッパの気象情報を電信で集め、毎日の天気図を刊行しています。
つまり、非常に簡単な方法でしたが、気象業務が進んでいたフランスより先に天気図を即日公開したのはアメリカ、スミソニアン学館でした。
スミソニアン学館での天気図の展示
スミソニアン学館での天気図の展示は、次の方法で行われました。
毎朝天気のレポートが届くと、地図上に「晴天なら頭が白いピン」「雪なら頭が青いピン」「雨なら頭が黒いピン」「曇りなら頭が茶色のピン」を打つというものでした。
少し離れてみると、地図上に天気分布が色で表示され、まさに天気図です。
そして卓越風向の観測がある地点のピンの頭に風向を示す矢印を貼り付けました。
スミソニアン学館の展示は評判を呼びましたが、評判だけにとどまりませんでした。
スミソニアン学館が入手した各地の気象情報は、ワシントンイブニングスターなどの主要な新聞にも掲載されるようになり、多くの人の目にふれました。
また、スミソニアン協会(学館)は、ニューオリンズからニューヨークまでの重要な駅に気圧計と温度計を貸与していましたので、鉄道線路沿いに詳しい気象観測も電信で入るようになっています。
シンシナティの駅で朝に雨なら、夕方7時頃にはワシントンで雨が降るという天気予報ができる可能性や、嵐の大都市接近に備える嵐警報システムができる可能性を示したのです。
スミソニアン協会の気象業務は、ほどなく海軍に引き継がれますが、気象業務が非常に役立つことを世間に認知させたスミソニアン協会の果たした役割は小さくありません。
1869年(明治2年)9月からシンシナティ周辺の天気図作成は、効果があることが分かったことから、1870年(明治3年)2月9日の大統領の認可をへて、アメリカ気象局の原型がつくられています。
日本の気象事業はと言うと、かなり遅れてスタートしたものの、明治維新以降、急速に追いついています。
表の出典:「荒川秀俊(昭和22年(1947年))、気象学発達史、河出書房」をもとに筆者作成。