承久の乱 官軍の大将軍・藤原秀澄が関東武士の襲来を聞いて、都に知らせたこと
承久3年(1221)5月26日、後鳥羽上皇の挙兵を受けて、関東武士たちが続々と都に向けて出立した後、鎌倉では「祈祷」が行われていました。「世上が平穏であるように」と鶴岡八幡宮において、祈祷が行われたのです。
その頃、北条泰時は、手越(静岡県静岡市)に到達していました。そこに現れたのが、春日貞幸という武士。彼は、信濃国(現在の長野県)からやって来たのです。しかし、彼(春日)は、武田信光や小笠原長清らが率いる「東山道方面軍」に属していた武士でした。
それがなぜか、泰時率いる「東海道方面軍」のところに来たのです。それはなぜなのか?『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)には「契約有りと称し」としか記されていません。
どのような契約があったのか、果たして本当に契約があったのかは不明ですが、とにかく、春日はそうした理由で、泰時軍に属してしまったのでした。
一方、官軍の大将軍である藤原秀澄は、美濃国まで出張っていました。関東武士たちが続々と西進していることを知った秀澄は、都に使者を遣わして、次のように伝達しました。
「関東武士らが官軍を破ろうとして、上洛しようとしています。その軍勢は雲霞(大軍)のようです。神仏のご加護がなければ、この災いを避けることはできないでしょう」と。
早くも敗北を見通しているかのような言葉ですが、この秀澄の言葉を聞いて、院方は、早速、神社に祈願に行くことが検討されています。