樋口尚文の千夜千本 第211夜『一月の声に歓びを刻め』(三島有紀子監督)
それでもなお映画になだれこむということ
『一月の声に歓びを刻め』を観て、ひと月以上が経とうというのに、いったいこの作品をどう評していいのか言葉が見つからない状態が続いた(いや、続いていると言うべきか)。というのも、本作は三島有紀子監督が自身の六歳の時の性被害をモチーフにして創りあげた作品と公言しているので、観る者は否応なくそれを念頭に置きつつ作品に相対することになる。そしてこれは映画の外側の話だが、自分は子どもを育てた経験がある者として、特に小児の性被害については峻烈な怒りと不快感を禁じ得ない。したがって本作を観ることはかなりえぐい体験であった。作品は仮に作家の体験に根ざすものだとしても、現実を濾過して生まれた虚構なのだから、そこまで現実を意識して引きずって観ることもないではないかという意見もあるだろう。だが私は、全篇にわたって人物たちの煩悶を映した擦過傷的な映像がつづくこの作品をなかなか正気では観ていられなかった。
あえて多くは記さないが、本作は意外な三つの断章から成っており、その創意によって三島は「事実」や「心的外傷」を対象化してみせんと試みているわけだが、それをもって多幸症的に三島の「新地平」などと称揚する気には到底なれない。あるいは三島が本作の起点なり背景なりを隠し通して十年後に「実は」と告白したのなら印象も違ったかもしれないが、それらを「現実」として認識してしまったわれわれからすると、どうしたところでこうした虚構がその苛酷な「現実」を消化したとか拮抗し得たとか、そんなふうには思えないのである。そのことは誰より三島監督自身が痛感したことではなかろうか。カルーセル麻紀や前田敦子が比類なき熱演で本作に取り組んでくれても、考え抜いた後に降ってきたであろう断章形式という虚構の力をもってしても、映画は到底「現実」に打ち勝ち難い。というよりもまるで別物なのである。
私は戦争で人のひとりやふたりは殺すはめになったであろう元軍人の監督を知っていたが、そんな彼は映画で戦争という「現実」を描こうなどといううららかな目はしていなかった。だから、彼が創ったのは綿菓子のような娯楽篇ばかりであって、そこには映画表現と「事実」との潔癖な線引きがあった。だが、キャリア的にはそんな映画の限界も重々知りながら、三島有紀子はなお映画に耐荷重をはるかに超えた「事実」の主題を持ち込んだ。私はその「事実」を知らされているからそもそも本作を冷静に観られていないかも知れないが、やはりこの作品は意余って破格のまま腑に落ちるところまで行っていないような印象をぬぐえない。しかし重要なのはそうなることが見えていようといまいと、三島有紀子がその「事実」を映画で迎え撃とうと試みざるを得なかったということであり、じたばたと勝算不明の映画づくりになだれこまないではいられなかった、ということなのだ。仮に作品としてどこか壊れていようが綻んでいようが、これもまたどうしようもなく映画なのである。