「限界」を超えることで、誰もが手にするもの
■ 情熱を持つために必要なこと
「私はもっと情熱を持って何かをやりたいです。どうすればいいですか?」
私は、いろいろな方から、このように相談されることがあります。
何か目標があり、その目標を達成させるために「情熱」が必要だったりしますが、その「情熱」そのものを持ちたい、という人がいます。
本来なら、何のためにその情熱が必要なのか、と問いたいですが、しかし私も、その気持ちを理解できます。
どんなことでもいい。一心不乱に情熱を傾けている人を見ると、応援したくなるものですから。自分も、あんな風に人生を賭けて何かに打ち込んでみたい。そう受け取る人は多いことでしょう。
「恋」と同じです。
誰かを愛し、恋い焦がれている人を見ると、「私もあんな恋をしてみたい」と思うものです。
ここで重要なポイントは「どんなことでもいい」ということです
よほど生理的に受け付けないものでない限り、どんなことでもいいのです。
「情熱を持つためには、自分のやりたいことを見つけること。そうすれば、自然と情熱が湧き上がってきます」
なんて言う人が多いですが、そもそも「自分のやりたいこと」を見つけられない人が大半です。だから、いいのです。やりたいことが見つからなくても。
では、具体的に、情熱を持つためには、どうすればいいのでしょうか。それは、「限界の基準」を超えることです。どんなことでもいいので、「限界の基準」を超えてみましょう。
この基準を超えるプロセスにおいてハートに火がつきますから、それが情熱となって自分の資産として残ります。
■「あたりまえの基準」とは
それでは「限界の基準」とは、何なのか?
まず、この基準を説明する前に、私が書籍やコラムでよく解説する「あたりまえの基準」について解説します。そもそも「あたりまえ」とは、誰かから【3回】も念を押されたら腹が立つことと私は定義しています。
たとえば、常日ごろからビジネス書を読むことが「あたりまえ」になっている人が、「仕事に関連する本ぐらい読みなさい」と誰かに言われたらイラッとすることでしょう。1回なら無視できますが、2回も3回も同じことを言われたら、
「あたりまえだろう! 仕事に役立つ本は定期的に買って読んでるって」
と言い返したくなるはずです。この人にとって、それが「あたりまえ」のことだからです。
しかし本を読まない人にとっては、読書が「あたりまえ」になっていません。「自己投資のために本ぐらい読みなさい」と言われたらイラッとせず、「そうですね」「キチンと読みます」などと言って素直に受け入れます。そのように指摘されても仕方がない現状があるからです。
■「限界の基準」も高いか?
さて、本題の「限界の基準」について。
「限界の基準」とは、けっこう大変だけれど頑張ればそれぐらいはできるかな、という目安です。
たとえば月に10冊本を読むことが「あたりまえ」になっている人がいるとします。しかし世の中には、毎日2冊とか3冊も本を読むことが「あたりまえ」になっている人もいます。月に60冊も90冊も読む計算です。
しかし月に10冊本を読む人にとっては、
「そりゃあ、毎日2冊、月に60冊の本を読めと言われたら不可能ではないけど、現実には難しい。どんなに頑張っても週に5冊、月に20冊が限界」
と言うことでしょう。
したがってこの人にとっての「あたりまえの基準」は、月10冊の読書。苦労することなくできます。「限界の基準」は、月20冊。頑張れば月20冊の読書もできる、ということです。
しかし、誰かに「読め」と言われないかぎり読書しない人にとっては、本を読まないことが「あたりまえ」ですから、この方の「あたりまえの基準」は月0冊です。そして
「どんなに頑張っても週に1冊が限界。私は本を読むのが遅いから」
と言うのであれば、「限界の基準」は月4冊です。つまり、「あたりまえの基準」が低いと「限界の基準」も低くなることが普通です。
■ 意外にも「限界の基準」は高まり続ける
「以前は限界だと思っていたが、いつの間にか限界ではなくなっていた」
このようなことは、よくある話です。「こんなハードなスケジュールをこなすなんて、とても無理だ」と思っていたのに、がむしゃらにやっていたら意外にもこなすことができた。
「限界だと思っていたが、限界じゃなかった」
ということを発見するものです。
やってみないとわからないわけですから、勝手に自分で限界を決めつけるのはよくありません。
筋トレがまさにそうでしょう。40キロのバーベルを持ち上げることができなかった人が、50キロ、60キロ……と持ち上げられるようになるには、無理だと思っても気合いで持ち上げていくうちに「限界だ」と感じなくなっていくのです。
筋トレと同じ要領で、「限界の基準」は上がり続けるものです。
私は現在、現場コンサルティングを続けながら、年間100回を超えるセミナー、年間100通以上のメルマガの発行、年間200前後のコラムの執筆、年間50本の動画の配信、年間1~2冊の書籍の出版を、コンサルティング会社の社長業もしながら続けています。
周囲からは、「寝てないんじゃないか」「休んでないんじゃないか」と心配されます。しかし当の私はまるで限界に達しているとは受け止めていません。
毎月100キロのランニングや、毎月1回のボランティア活動、毎月20回以上の「家メシ」の調理もしています。子どもの勉強もそれなりに見ているつもりです。
以前は「限界だ」と思っていた状況が、慣れてくると「あたりまえのこと」となり、「限界の基準」だったものが「あたりまえの基準」にすり替わっていきます。
私よりもはるかに多くの事業を手掛け、いくつも会社を経営し、たくさんの団体の幹部を引き受け、全国で講演し、執筆をし続ける方もいます。
私の基準からすると、とても信じられないですが、その方にとっては、それが普通であり「あたりまえ」の日常です。能力の差もあるのでしょうが、刺激に馴れていくことで「頑張ればできる限界量」が徐々に高まっていくことはあるのです。
■「限界の基準」を超えることで手にするもの
このように、何度も「限界の基準」を超えていると、いつのまにか、そのことが平気でできるようになるのですが、その途中プロセスにおいては、かなりのエネルギーを費やすことになります。そのエネルギーがないと、「限界の基準」は超えられません。
バーベルを持ち上げる話なんか、まさにそうです。
体が壊れるような重量のバーベルを上げてはいけませんが、プロのトレーナーが、
「大丈夫です。いけます!」
と言うのなら大丈夫なのでしょう。しかし、過去にそんな重さのバーベルを持ち上げたことがないなら、「もう限界。ムリ」と言いたくなるもの。
しかし、「絶対にいける!」と鼓舞されれば、「ふぬぬぬぬぬ――!」と歯を食いしばってチャレンジします。まさに、気合いと根性。自分のハートに火をつけることで、みずからを奮い立たすことができます。
すると不思議な現象が起きます。絶対にムリだと思っていたのに、バーベルが持ち上がるのです。そしてムリだと信じていた事柄が、自分の思い込みだと気付くのです。
普段の仕事でやってみても、同じです。
何となくやっていると、情熱の火を燃やすことなどできません。任された仕事について一心不乱に探究し、限界を超えるまで勉強したら、その仕事に対する情熱が湧き上がるものです。
情熱があるから打ち込めるのではなく、打ち込むことで情熱の火がつくのです。どうしても情熱を手にしたい人は、逆算思考で考えるべきです。
情熱を持ちたい人は、「限界の基準」を超えることを意識していきましょう。どんなことでもいいのです。「何か限界なこと(サムシング・リミット)」に挑戦してみましょう。そうすれば、限界を超えようとするたびに自然とハートに火がつき、それが情熱の炎となって、自分の中で資産化します。