樋口尚文の千夜千本 第63夜 【追悼】冨田勲
職人とアーティストを決然と隔てる美徳
冨田勲は、1971年、日本で最も早い時期にモーグ・シンセサイザーを導入した作曲家として知られるが、それまでの1960年代にはドラマからドキュメンタリーまでをまたいだテレビ番組の作曲家として引く手あまたであった。さらに言えば、それ以前の1950年代から20代の冨田は映画音楽の劇伴を意欲的に手がけていた。
1958年の東映映画『地獄の午前二時』を皮切りに、初期の冨田は東映大泉撮影所の職人監督・関川秀雄(代表作は『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声 』『超高層のあけぼの』)といくつも組んでおり、しかもそれらは『国際スリラー映画 漂流死体』『悪魔の札束』などのサスペンス、スリラー物で占められている。サスペンスと言えば、同時期にやはり村山新治監督、長谷川公之脚本で人気のあった『警視庁物語』シリーズでも『顔のない女』『一○八号車』『遺留品なし』など七本を担当している。まだプログラム・ピクチャーの量産期であった当時、こうした添え物の娯楽作という領域は、冨田のように55年に慶大を卒業してあらゆる仕事を開拓していた新進の才能にはうってつけのトライの場であった。この時期の冨田の作品は、いわゆる劇伴として物語に寄り添いながら、日本的ではないモダンな旋律で今観てもきわめてカッコよく快調である。
そんな冨田がぐんと作家的に目立ってきたのは、60年代半ばの東京オリンピックを過ぎた頃からで、これはちょうど東映『狼と豚と人間』『脅迫』『解散式』から松竹『黒蜥蜴』に至る深作欣二監督の作品を続々と引き受けていた時期だが、この時分に異彩を放つのが内田吐夢監督『飢餓海峡』の音楽である。名匠・内田吐夢は、この重厚なるミステリー大作を料理するにあたって、持ち前の開拓精神で映像面でもW一○六方式という実験を試みつつ、音楽でもまだ三十歳を越えたばかりの若き冨田に画期的な曲を書かせている。というのも、全篇に流れる地蔵和讃の合唱がミュージック・コンクレート的に加工されていて、これと従来のサスペンス映画を彩っていた冨田のオーソドックスで洒脱な楽曲を組み合わせた、ひじょうに独創的なサウンドトラックなのであった。この下北半島と津軽海峡を原点とするどろどろとした愛憎と欲望の物語は、意外や冨田が地蔵和讃を電子音楽的にアレンジした一見ミスマッチな発想によって、ぐんと目覚ましい異色さを手に入れており、70年代の冨田のシンセサイザーへの傾倒を予告しているという意味でも(そういう説を聞いたためしはないが)本作は冨田の代表作のひとつではなかろうか。
だが、そもそも冨田が映画界で活動を始めた1958年は日本映画の観客動員数が絶頂をきわめ、以後まっさかさまに興行が凋落してゆく時期に相当し、一方ではその1958年開業の東京タワーが象徴するテレビジョンの活気に満ちた普及台頭期にあたるため、冨田サウンドに影響されたファンのほとんどは、テレビ界における冨田勲の華麗なる活躍の軌跡に伴走していた視聴者である。奇しくも同じ1963年に、冨田はNHK大河ドラマ『花の生涯』と長寿ドキュメンタリー番組『新日本紀行』という重厚なるテーマ曲の傑作を書いているが、一方ではかの有名なNHK『きょうの料理』のようなコミカル、軽妙な小品まで、60年代から70年万博に至るテレビ高度成長期を埋め尽くした冨田サウンドの数々はきわめて多彩で、それまでの映画音楽だけではまだ見えてこなかった冨田の稀代の職人ぶりがテレビにおいて存分に発揮された季節であった。
極私的な子ども時分の思い出に迂回すると、1969年の春、東宝の大作映画『風林火山』を観てしたたかに興奮して帰宅すると、同じモチーフのNHK大河ドラマ『天と地と』を放送していて(これは大河初のカラー作品だったが)自宅の小さな白黒テレビで見る本作は、もうその冨田勲のめちゃくちゃ壮麗な音楽の空撮タイトルバックだけでも、もうじゅうぶんに『風林火山』の総天然色シネマスコープ画面に勝るとも劣らぬ迫力をたたえているのだった。そんな茶の間の小さなテレビ画面からはみ出しそうな、洒脱でゴージャスな、あるいはウィットに富んだ響きをもって、ぼくらは『キャプテンウルトラ』『マイティ・ジャック』といった特撮番組、『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『どろろ』といったアニメ番組、こみいったところでは小松左京原作の人形劇番組『空中都市008』などのテレビ作品でこれでもかと鼓舞されていた。こうした冨田サウンドの日本人離れしたモダンさとリッチさが、子どものぼくらにはいかにカッコよく、血湧き肉躍るものであったことか!
思えば冨田勲のこれらの楽曲の数々は、日本のテレビ番組の劇伴のいかにも和風でモッサリとした感じとは一線を画し、どちらかといえば日本的映像よりも当時盛んに輸入されていたアメリカのテレビ映画群(これは洒脱でスタイリッシュなテーマ曲の坩堝であった!)にこそ似合いそうな曲調だった。あれはぼくらの憧れであったとともに、冨田勲の欧米的なるものへのあこがれでもあったのかも知れない。そしてそのあこがれが、やがて必然としてシンセサイザーの世界に冨田を導いていったのだろう。私財をはたいてモーグのシンセを入手した冨田は、国内のレコード会社では全く相手にしてもらえなかったドビュッシーのシンセサイザー新解釈『月の光』がアメリカでリリースされて一気に国際的作家になる。
同アルバムが米ビルボードの2位となり、グラミー賞にノミネートされて「逆輸入」されたトミタ・サウンドは国内でも喝采を浴び、冨田は時の人となるが、しかし実はこの直前までごく普通に劇伴の職人として野村芳太郎監督『初笑いびっくり武士道』『しなの川』、増村保造監督『御用牙 かみそり半蔵地獄責め』などのプログラム・ピクチャーの音楽をこつこつと担当していた。そんな冨田がアーティストとしてはばたく前の、最後の邦画サントラと言えばようやく冨田がシンセサイザーを存分に動員してみせた74年の舛田利雄監督『ノストラダムスの大予言』で、これも当時の観客のぼくらは(日本映画音楽の名匠たちがどうしてもSF的なサウンドを書いてくれないことに失望していたので)いつもの邦画サントラとはまるで別物の近未来的な楽曲の連打に痺れまくった。このサントラは、シンセサイザーを駆使したものとしては冨田の代表作に違いないだろう。
こうしてシンセサイザーの第一人者として国内外の注目を集めるようになった冨田は、映画音楽から遠ざかって『惑星』『展覧会の絵』『ダフニスとクロエ』などのアルバムを発表し続けるのだが、『ノストラダムスの大予言』のシンセサイザーならではの魅力をもう一度なにか邦画で開陳してもらえないだろうかと夢想していた私としては、坂東玉三郎と舞台『天守物語』で組んでいた冨田が、79年の同じく泉鏡花原作、玉三郎主演、篠田正浩監督『夜叉ヶ池』で五年ぶりにサントラを手がけると聞いて心躍った。もっともこれは全篇オリジナルではなく、シンセのアルバムのベスト盤のように『月の光』や『展覧会の絵』などに収められた楽曲をコラージュしたものだったが、意外や泉鏡花の世界にドビュッシー「沈める寺」やムソルグスキーの「古城」などが実にハマッていた。この『ノストラダムスの大予言』も『夜叉ヶ池』も諸事情で再見することが難しくなっているが、冨田のサウンドトラックの魅力を再考するためにもぜひ改めてスクリーンで拝みたい作品である。
さて、こんな冨田がシンセのアーティストではなく劇伴の作曲家として本格的に帰還するのは、さらに時を経て90年代の松竹『学校』シリーズ、次いでゼロ年代以降の『たそがれ清兵衛』「隠し剣鬼の爪』『武士の一分』などの藤沢周平原作のシリーズから『母べえ』『おとうと』などのホームドラマに至る、山田洋次監督の作品群であった。これらの冨田は、見事なまでに「劇伴職人」の昔に戻って無私に映画に寄り添うかたちの楽曲づくりに専心してみせた。正直に言えば、往年のケレンと洒落っ気あふれる冨田の楽曲で育った世代にはこれらのサントラはひじょうに地味でおとなしいものに映ったが、しかしこれは決して冨田の「衰弱」でも「退行」でもなかった。なぜならこの職人的なストイックさの対極で、アーティストとしての冨田はなんと80歳にしてVOCALOIDの初音ミクをソリストとして起用したオーケストラ作品を発表してみせたではないか。
思えば『ノストラダムスの大予言』『夜叉ヶ池』など僅かな例を除いて、冨田はサントラにシンセサイザーのアーティストとしての自己主張を盛り込むことは控えていたし、あくまでシンセサイザーはアーティストとしての自己表現の場で駆使するものと決めていたのではなかろうか。それゆえにアーティストとして突出してからの冨田は、サントラからきっぱり身を引いていた。そして、晩年にごく地味な作品世界に合致したサントラを提供し続けたのは、サントラはそういうものでなくてはならず、アーティストの自己主張の場であってはならないという美徳ゆえのものであろう。
そういう意味でも惜しまれるのは、かつてフランシス・コッポラが『地獄の黙示録』で音楽を冨田にオファーしたことが諸事情で実らなかったことだ。それを受けてコッポラの父、カーマイン・コッポラが手がけた同作のサントラの一部には、明らかに冨田の『惑星』へのオマージュのような細部がある。もしこの仕事が実現していたなら、それこそ冨田勲は職人とアーティストを最高のボルテージで同時に実践できたのではないかと思うのである。