雄物川(御物川)氾濫 高低差の少ない河川は便利と危険が隣り合わせ
東北地方で梅雨前線が活発化
東北地方では、梅雨前線が停滞し、南から暖かく湿った空気が流れ込んだために秋田県を中心に非常に激しい雨が降りました(図1)。
7月22日20時には、秋田県由利本荘市北部で1時間に約110ミリの記録的短時間大雨情報が発表となり、22日から23日にかけての24時間で、降水量がアメダスの観測開始以来の記録となったのが、秋田県で10か所、岩手県で1か所あります(表1)。24時間で7月の平年降水量を超えたところも少なくありません(表1)。
雄物川の氾濫
記録的な大雨により、秋田県大仙市の雄物川上流では、23日朝に右岸から、23日昼には左岸から氾濫が発生するなど、各地で河川の水位が上昇しました。
このため、雄物川に対して河川指定洪水予報が国土交通省と気象庁が共同で、最高レベルの「洪水発生情報」を発表するなど、警戒が続きました。(図2、図3)。
近年の雄物川氾濫
近年の雄物川で、5000戸以上が浸水した水害は5回ありますが、何れも7月を中心とした前線によるものです(表2)。
昭和19年7月18~21日の洪水も不連続線の上を低気圧が通過して発生しました(図4)。当時は、梅雨前線という概念がなく、風が不連続に変わっているということで不連続線が引かれていますが、これは、今でいう梅雨前線の意味です。
なお、昭和19年の洪水被害は、太平洋戦争の最中です。個人的には、実際の被害は、もう少し大きな被害であった可能性があると思います。
江戸時代から始まった大川の治水工事で御物川に
雄物川は高低差の少ない河川です。
このため、ちょっと大雨が降るとすぐに溢れる河川でした。このため、たびたびの洪水で流路を変え、しかも冠水が長引くという暴れ川でした。
江戸時代になると、堤防や放水路を作って河川を固定する治水対策が本格的に始まります。その結果、川の水位が下がって多くの新田ができ、多くのコメが作れるようになりました。
そして、高低差が少ないという利点から水運が発達しました。上り舟は海産物などを、下り舟は米など農産物を主な積み荷としました。角間川や刈和野(いずれも現在の大仙市)などには大きな河岸場がありました。
このため、「大川」と呼ばれた川は、御物(年貢米)を運ぶ川という意味で「御物川」と呼ばれるようになっています。
明治以降も治水対策が進み、さらに良質なコメが多く取れるようになったのですが、川の名前は、同じ音の「雄物川」に変わっています。
この変更理由は明らかになっていませんが、御物がなくなり、奥羽本線などの鉄道網によって水運が衰退したことが理由ではないかと思っています。
寛永9年6月の洪水と白髭水
江戸時代も御物川(雄物川)は、たびたび大きな洪水が発生していす。
協和村(現在は大仙市)には、寛永9年(1632年)の大洪水の時、白髪白髭白衣の老人が大樹の根に腰をかけ濁流をくだっていったので、この洪水を「白髭水」というようになったこという伝承が残っています。
また、元禄14年(1701年)には、白髭大明神が又右エ門という人に大洪水を告げ、使いの狐が騒ぎ立てるので避難した人もいましたが、迷信と侮った人は濁流にのまれてたことから、この洪水を「白髭の大水」という呼んだという伝承も残っています。
似た話が各地にあります。
例えば、岩手県遠野盆地から遠野街道の民話を集めた柳田国男の「遠野物語」に「北上川の中古の大洪水に白髪水(シラガミズ)というのがあり、白髪の姥を欺き、餅に似たる焼石を食わせし祟りなりという」とあります。
「白髪水」、「白髭水」などの伝承で、白いう言葉が強調されるのは、激しく降る雨は白っぽい雨であるからです。
気象庁ホームページにある雨の強さと降り方で、1時間に50ミリ以上の雨の様子は、「水しぶきであたり一面が白っぽくなり、視界が悪くなる」となっています。白っぽい雨は、洪水や土石流が発生しやすい雨です。
雨が降る時に「白」は要警戒です。