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「灯台の日」は「文化の日」の前々日 文明開化前に灯りをともした灯台での気象等の観測が気象業務の出発点

饒村曜気象予報士
観音崎灯台(写真:イメージマート)

台風21号から変わった低気圧

 令和6年(2024年)の台風21号が台湾を直撃し、台湾の3000メートル級の山々によって勢力をかなり落としています。

 10月25日6時にマリアナ諸島で発生した台風21号は、10月30日の予報では、31日は「猛烈な台風」にまで発達して沖縄の南を通って台湾へ上陸するというものでした。

 実際は、「猛烈な台風」にまでは発達しなかったのですが、それでも「非常に強い台風」に発達して台湾に上陸しました(図1)。

図1 台湾横断による台風21号の中心気圧の変化(10月31日9時から21時)
図1 台湾横断による台風21号の中心気圧の変化(10月31日9時から21時)

 それも、台湾のど真ん中を横断したことから、上陸直前には935ヘクトパスカル(最大風速50メートル)であったものが、横断直後には980ヘクトパスカル(35メートル)と、12時間で45ヘクトパスカルも気圧が高くなっています(衰弱しています)。

 そして、11月1日21時に東シナ海で温帯低気圧に変わりました。

 この台風21号から変わった温帯低気圧が、日本列島を横断し、文化の日(11月3日)を含む三連休前半の日本列島に影響を与えました(図2)。

図2 地上天気図(11月2日9時)
図2 地上天気図(11月2日9時)

 台風から温帯低気圧に変わると安心する人がいますが、発達のエネルギーが水蒸気が雨に変わる時に発生する熱エネルギーから、冷たい空気が温かい空気の下に潜り込もうとする位置エネルギーに変わるだけで危険性は同じです。中心付近の風が弱くなっても強い風が吹く範囲は広がりますし、強い雨の降り方は同じです。

 気象関係者の間では、「腐ってもタイ」という言葉が伝わっています。台風は、どんな形態に変わろうとも、災害を引き起こす可能性があり、最後まで油断できないからです。

 台風21号から変わった低気圧や前線に向かって、台風21号を起源とする暖かく湿った空気が流れ込んだことから、長崎県では線状降水帯が発生しました(図3)。

図3 長崎県で発生した線状降水帯(2024年11月2日1時40分)
図3 長崎県で発生した線状降水帯(2024年11月2日1時40分)

 また、長崎県と愛媛県、神奈川、静岡県では、気象庁が記録的短時間大雨情報を発表させるほどの大雨が降りました。

11月2日 1時20分 長崎県 平戸市付近で約120ミリ

11月2日11時30分 愛媛県 松山市付近で約100ミリ

11月2日12時00分 愛媛県 今治市付近で約120ミリ

11月2日18時50分 神奈川県 小田原市付近で約100ミリ

11月2日18時50分 神奈川県 湯河原町付近で約100ミリ

11月2日18時50分 静岡県 函南町桑原 114ミリ

11月2日18時50分 静岡県 熱海市付近 約110ミリ

11月2日18時50分 静岡県 函南町付近 約110ミリ

11月2日19時00分 神奈川県 真鶴町付近 約100ミリ

 台風21号も、「腐ってもタイ」でした。

気象業務を最初に始めたのは灯台

 気象庁では、台風や低気圧が接近してくると警報や注意報などを発表し、警戒を呼び掛けるなどの防災活動を行い、被害軽減に寄与しています。

 このような気象庁の業務が始まったのは、気象庁の前身である内務省地理寮気象係(東京気象台)が、明治8年(1875年)6月1日に、内務省地理寮構内(現在の港区虎ノ門)で気象観測を開始した時とされています。

 ただ、内務省地理寮気象係が気象観測を行う前に、各地の灯台では気象観測や地震観測が行われていました。

 近代日本の灯台(燈台)の歴史は、徳川幕府が開国に伴って,慶応2年(1866年)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4か国と結んだ「江戸条約」によって8つの灯台(観音崎、神子元島(みこもとじま)、樫野埼、剣埼、野島埼、潮岬、伊王島、佐多岬)の建設を約束したことに始まっています。

 その後、兵庫開港に備えて5つの灯台建設をイギリスと約束した「大阪条約」などがありましたが、これらの約束は、徳川幕府を倒した明治新政府に引き継がれています。

 明治元年(1868年)6月、明治新政府は横須賀製鉄所に観音崎灯台の建設を命じ、同時にイギリスからR.H.ブラントン等を灯台建設のために招いています。

 日本初の西洋式灯台である神奈川県三浦半島の初代・観音崎灯台は、横須賀製鉄所に雇われていたフランス人技師、F.ウエルニーによって明治元年9月17日(1868年11月1日)に建設に着手、翌2年1月1日(1869年2月11日)に点灯となっています。

 レンガ造りの洋館の上に灯塔をつくり、そこで落花生の油を燃やした光を、フランス製レンズで光を強めていました。

 観音崎灯台に続いて、ブラントンによって、明治3年(1870年)6月10日に石造りの樫野埼灯台台の点灯と木造の潮岬灯台の仮点灯,同年6月16日に鉄造りの伊王島灯台、同年11月11日に石造りの神子元島灯台が点灯になるなど、続々と灯台が作られてゆきます。

 燈台寮雇技師長となったブラントンは、各地で精力的に行われている灯台の建設と運営の指導を行い、各灯台で天気、気圧、風向・風速などを記録した「天候日誌(天候広報、天気広報)」を月ごとに集めています(図4)。

図4 明治10年(1877年)1月の神子元燈台の天気広報の一部
図4 明治10年(1877年)1月の神子元燈台の天気広報の一部

 このうち、気象庁には、マイクロフィルムという形で、明治10年(1877年)1月以降の灯台の観測記録が残されています。

 気象庁が昭和50年(1975年)に刊行した「気象100年史」には、明治4年(1871年)から観測記録がある燈台があるという記載がありますが、明治9年(1876年)以前の古いものは現存していないようです。

 明治10年(1877年)1月では、図5のように24灯台・2灯船からの気象観測の報告がありますが、東京湾、大阪湾、関門海峡付近に集中しており、ここが明治初期の日本にとって重要地域ということがわかります。

図5 明治10年(1877年)の観測記録が残されている26の燈台(燈台)・燈船(表中の番号は図の番号と同じ)
図5 明治10年(1877年)の観測記録が残されている26の燈台(燈台)・燈船(表中の番号は図の番号と同じ)

 明治初期においては,表のように気象台や測候所の数も少なかったため、気象を調査しようとすると、灯台の観測データが不可欠でした。明治初期の日本の気象業務揺籃期には、灯台は気象台の前にあったのです。

 また、明治14年(1881年)に内務省駅逓局管船課を任期満了となったE.クニッピングが、「日本も暴風警報の発表業務を行うべき」との建白を行ったときには、船舶の航海日誌と灯台の天候日誌を使って行った明治11年から13年(1878年から1880年)の5つの台風についての調査が添付されていました。

 翌15年(1882年)1月、クニッピングは、暴風警報実施のため、地理局にあった東京気象台(気象庁の前身)に雇われています。ここに、組織的に気象観測を電報で集め、暴風雨を予知して防災活動を行うという、日本の警報業務が始まったのです。

表 明治初期の気象台等の設立と燈台からの気象観測の報告数
表 明治初期の気象台等の設立と燈台からの気象観測の報告数

「文化の日」の前に「灯台記念日」

 11月3日は昭和21年(1946年)の日本国憲法公布日を記念して制定された「文化の日」の祝日です。

 文化の日の前々日、11月1日は「灯台記念日」です。

 日本初の近代的灯台である観音崎灯台は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で倒壊していますが、灯台を管轄する海上本庁が昭和24年(1949年)に「灯台記念日」を決めたときに、この観音崎灯台の建設に着手した明治元年9月17日を太陽暦に直した11月1日としているからです。

 記念日の多くは完成した日であり、着手した日とするものが珍しいためか、「灯台記念日は文化の日の前にもってきた」という俗説を生んでいます。

 文化の前に灯りがあるということでしょうが、日本の気象業務という文明開化の業務の前に、灯台での灯りに関連した気象等の観測があったのは事実です。

図1、図3の出典:ウェザーマップ提供。

図2の出典:気象庁ホームページ。

図4、図5、表の出典:饒村曜(平成14年(2002))、明治の気象業務に重要な役割をした燈台での気象観測、雑誌「気象」3月号、日本気象協会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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