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改めて復習してみる。摂関政治とはどういう政治形態なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
藤原道長。(提供:イメージマート)

 今年の大河ドラマ「光る君へ」の舞台は平安時代で、ちょうど摂関政治が行われていた時期にあたる。摂関政治は歴史の教科書で習ったが、改めてどういう政治形態なのか確認しておこう。

 そもそも摂政と関白がどういう職なのか、考えてみることにしよう。摂政とは天皇に代わって政務を執ることで、天皇が幼少もしくは女性である場合に置かれた。

 神功皇后が子の応神天皇の摂政を務めたというが、伝承の可能性が高いとされている。推古天皇の摂政を務めた聖徳太子(厩戸皇子)が、初めてと考えてよいだろう。

 一方の関白の職務や地位は、摂政とほぼ同じであるが、天皇が成人後に政務を担うときに任じられた。中国の故事「百官の上奏に関(あずか)り、意見を白(もう)す」というのが語源である。

 仁和3年(887)、藤原基経が宇多天皇の関白を務めたのが最初である。以降、摂政・関白の職は、藤原氏が独占することになった。なお、摂政・関白に准じる職務としては、内覧がある。

 中世以降、摂政・関白になることができたのは、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家に限られ、この5つの家が交代で務めていた。豊臣秀吉と養子の秀次が関白を務めたのは、まったくの例外である。

 以降、摂政と関白の制度は幕末まで続き、慶応3年(1867)になって廃止された。摂政と関白が政治的な権力を握ったのは、藤原氏が天皇の外戚(母方の祖父)だった点にある。

 平安時代初期、藤原氏は他氏を次々と排斥し、政治権力を握った。藤原良房(804~872)は、人臣として初めて太政大臣に任じられた。良房は外孫の清和天皇が即位すると、摂政として政務に関わることになった。

 良房の子の基経も摂政となり、次いで関白に任じられた。しかし、基経が亡くなってから約40年の期間、忠平(基経の子)が亡くなってから約20年の期間は、摂政と関白が任じられることなく、必ずしも摂関政治が定着したとはいえなかった。

 10世紀中後半から再び藤原実頼が関白に任じられると、摂関政治は再開された。摂政や関白に任じられた藤原氏は、天皇の外祖父として政治をコントロールしたのである。

 摂関政治の黄金時代を築いたのは、藤原道長・頼通の時代だった。道長は「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」と和歌を詠じ、我が世の春を謳歌したのである。この点は、改めて取り上げることにしよう。

 治暦4年(1068)に教通(道長の五男)が摂政に就任したが、藤原氏と姻戚関係にない後三条天皇が親政を行った。これが摂関政治の終焉となった。

 後三条のあとを継いだ白河天皇は、応徳3年(1086)に天皇位を堀河天皇に譲り、自らは上皇となって院政を開始した。こうして、院政による政治が幕を開けたのである。

主要参考文献

古瀬奈津子『摂関政治 シリーズ 日本古代史⑥』(岩波新書、2011年)

佐々木恵介『天皇の歴史③ 天皇と摂政・関白』(講談社学術文庫、2018年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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