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「K-POPの国」で起きた「特殊部隊の国会突入」――時代錯誤の非常手段とその代償

西岡省二ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長
4日、韓国で戒厳令が宣言された後の国会近くの様子(写真:ロイター/アフロ)

「戒厳令」という言葉を、韓国の友人は思わずネットで検索したそうだ。K-POPに代表される韓国は今、軍事独裁からほど遠い「ソフトパワー」の模範のはずだ。そんな国に不釣り合いな「特殊部隊の国会突入」シーンを目の当たりにして、韓国との関連で仕事をする人々は大いに戸惑ったはずだ。筆者もそうだ。

◇「自由を失う」戒厳令

「戒厳令」が敷かれると、何ができなくなるのか。

「戒厳司令部布告令(第1号)」によると、国会・地方議会、政党の活動と政治的結社、集会、デモなど一切の政治活動▽自由民主主義体制を否定したり、転覆を企てたりする一切の行為▽偽ニュース・世論操作・虚偽扇動▽社会混乱を助長するストライキ、怠業、集会行為――が禁じられ、すべてのメディアと出版は戒厳令によって管理される。違反者は令状なしに逮捕・拘禁されて家宅捜索を受け、処罰されることになる。

 韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領は3日深夜、予告なしに生中継で演説し、「北朝鮮共産勢力の脅威から自由大韓民国を守り、国民の自由と幸福を略奪している破廉恥な親北反国家勢力を一掃し、自由憲政秩序を守るために非常戒厳を宣言する」と語った。

 韓国では1979年10月26日、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領(当時)が暗殺され、国務総理だった崔圭夏(チェ・ギュハ)氏が過渡的に大統領に就任し、翌27日に一部の地域を除いて非常戒厳令を出した。その後、全斗煥(チョン・ドゥファン)氏(のちに大統領)が「粛軍クーデター」で実権を握り、1980年5月17日に非常戒厳令を全国に広げた。

 戒厳令はこの時以来だ。

 その全斗煥氏による「粛軍クーデター」を題材にした映画が、最近日本でも公開された「ソウルの春」。そのシーンと、今回の出来事をダブらせたウォッチャーも少なくないだろう。

◇3日深夜から4日未明に起きたこと

 尹大統領の宣言以後、戒厳司令官のパク・アンス陸軍参謀総長が上記の「第1号」を発令した。

 これを受け、警察車両が国会正門を封鎖し、戒厳軍の精鋭部隊が国会議事堂の窓ガラスを破って突入した。国会前には市民が数千人集結し、戒厳軍進入の際、軍との間でもみ合いになった。戒厳軍は野党「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン)代表だけでなく、与党「国民の力」の韓東勲(ハン・ドンフン)代表や禹元植(ウ・ウォンシク)国会議長さえも拘束しようと動いたとも伝えられる。

 ところが4日午前1時の時点で、国会が戒厳令解除を求める決議を可決した。300人の議員中190人が出席し、全会一致で賛成票を投じた。憲法第77条によると、国会が過半数の同意をもって戒厳令解除を求めた場合、大統領はこれに従う義務がある。午前1時12分には、国会から兵士は撤収し、国会正門前で市民が「大韓民国万歳!」と叫んだ。

◇戒厳令の理由

 尹大統領は元検察官で、2022年の大統領選の際、1%の僅差で当選した。ただ、国会は野党が掌握していたため政権運営は不安定で、政治的対立が途切れることはなかった。

 妻・金建希(キム・ゴニ)氏に関わるスキャンダルが浮き沈みして支持率は低迷する。国会では野党主導の下、来年度の政府予算を削減(修正)され、国家監査院長や検事総長の弾劾手続きが始められた。

 尹大統領は3日の演説で、自身の就任以来、官僚の弾劾訴追が22回にわたって発議されたと明かしたうえ、「世界のどの国にも例がない状況だ」と野党を批判した。さらに「判事を脅かし、多数の検事を弾劾するなど、司法業務・行政府を麻痺させている」と強調し、効果的な国政運営ができないと訴えた。

 こうした野党を、尹大統領は「北朝鮮共産勢力」と結びつけたうえで「反乱を企てている」「自由民主主義を転覆させようとしている」と非難したのだ。

 つまり、国政停滞を打開する窮余の策として「非常戒厳」という過激な手段を使ったわけだ。

◇混乱の責任

 戒厳令宣言は尹大統領が政治的不安を払しょくするための強硬策だったが、国会によって迅速に解除され、尹大統領の政治的立場はさらに厳しいものになった。

 野党は「戒厳令は違憲」「失敗したクーデター」として大統領退陣を要求する。韓国で最も戦闘的な労働団体で100万人以上の組合員を有する「韓国労働組合総連盟」は尹大統領の辞任まで無期限ゼネストを続けると宣言した。

 戒厳令宣言を受け、金融市場では韓国ウォンが急落し、対ドルで約2年ぶりの安値を記録した。KPOPスターの国内ライブや世界トップアーティストの韓国公演の開催を危ぶむ声も上がっている。

「反尹錫悦」の抗議活動はさらに拡大するだろう。2016年秋から始まった、朴槿恵(パク・クネ)大統領(当時)を退陣に追い込んだ市民集会「ろうそくデモ」のような光景が今後も展開されるだろう。

 一方で、尹大統領を明確に支持するという声、グループの動きは見えにくくなっている。

 実は2016年の「ろうそくデモ」当時も、戒厳令を敷いて陸軍がデモを鎮圧する計画があったそうで、尹大統領も念頭に置いていた可能性はある。それを実行に移し、わずか6時間で撤回せざるを得ない状況になった尹大統領に、果たしてどこまで「緻密な計算」があったのか。混乱の責任からは逃れられないだろう。

ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長

大阪市出身。毎日新聞入社後、大阪社会部、政治部、中国総局長などを経て、外信部デスクを最後に2020年独立。大阪社会部時代には府警捜査4課担当として暴力団や総会屋を取材。計9年の北京勤務時には北朝鮮関連の独自報道を手掛ける一方、中国政治・社会のトピックを現場で取材した。「音楽」という切り口で北朝鮮の独裁体制に迫った著書「『音楽狂』の国 将軍様とそのミュージシャンたち」は小学館ノンフィクション大賞最終候補作。

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