金正恩総書記は尹錫悦政権の「自滅」を喜んでいるのか?
韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領をあれだけ毛嫌いしてきたのだから、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党総書記は今の韓国の混乱を見ながら、留飲を下げていることだろう。チキンレースをしている相手が「オウンゴール」を決めてくれたのだから。ただ、尹政権が終焉を迎え、自らに融和的な進歩(革新)系政権が韓国に誕生しても、金総書記は果たして「統一」「和解」の道に引き返すだろうか。
◇「尹大統領」対「韓国国民」
尹大統領による「非常戒厳」宣布の約1週間後、北朝鮮は沈黙を破るように、それまでの韓国での出来事を詳細に伝えた。
党機関紙・労働新聞や国営朝鮮中央通信は11日、尹大統領の「非常戒厳」宣布から解除要求決議案、弾劾訴追案発議・採決無効化、大統領弾劾を要求するろうそくデモについて一通り報道した。労働新聞には韓国メディアのキャプチャーなのか、デモの写真も複数掲載されていた。ただ、その内容は「事実関係の整理」にとどまり、自国の立場を明言するような文章は見られなかった。
一方で、記事には「軍事独裁の暴力を国民に向けた」「軍事独裁政権時代のクーデターを思わせる非常手段」などの表現とともに、デモで叫ばれていた「尹錫悦退陣」「国民の力解体」などのスローガンが紹介されていた。
つまり北朝鮮の宣伝扇動当局は「国民を相手に銃剣を突きつけた」尹大統領と「尹錫悦に対する沸き立つ憤怒を胸に長期戦の弾劾闘争を宣言した」国民の対立構図を描いたのだ。
振り返れば、北朝鮮の国営メディアは昨年7月以降、韓国を「大韓民国」と呼ぶようになった。それまで南朝鮮と呼んできたものを、正式な国名にあえてカギ括弧をつけて表現するようになった。その時には「大韓民国」を名乗る勢力(=尹政権)が不当に「南朝鮮人民」を支配しているというニュアンスが込められていたように思える。今回の報道も、尹政権と韓国国民を区別している。
対峙してきた相手が突然姿を消し、今度は進歩系が勢いづいている。ただ、次期政権が文在寅(ムン・ジェイン)前政権のように融和姿勢に転じたとしても、北朝鮮が直ちに南北関係の修復に応じるとみるのは難しいだろう。
◇もはや幻想を抱いていない
筆者は、金総書記がもはや「南北関係改善が北朝鮮を豊かにし、西側諸国との関係改善の踏み台になる」などの幻想を抱いていないとみる。むしろ「南北関係の発展は危険だ」と考えているように思える。
2018~19年、北朝鮮が米国との関係改善を模索していた時、融和的な文在寅政権と対話を繰り返し、米朝関係発展への橋渡しを期待した。だが米朝交渉が決裂したあと、北朝鮮は、自国が期待したような役割を果たせなかった文在寅政権に不信感を抱き、一転、攻撃的な態度を見せるようになった。
結局、南北関係が深まっても、米朝関係が前進しない限り、韓国から得られるものは限定的だ――北朝鮮はこう確信した。それどころか、南北融和の流れにしたがって、人やモノの往来を活発化させることがいかに危険であることかを悟った。
北朝鮮でも韓流が広まる。「発展した韓国」の情報が住民に影響を与える。自国民に信じ込ませてきた“事実関係”が、その情報によって覆される。
かつての東ドイツでも、西ドイツとの国力格差が広がって圧力に耐えられなくなり、「二つの民族、二つの国家論」を唱えるようになった。金総書記が南北関係を「敵対的な二つの国家」と規定したのは、自国が極めて厳しい状況に置かれていることのシグナル――と筆者はみている。
北朝鮮にとって韓国はもはや「統一のパートナー」ではなく、征服すべき外国である。だが、征服の可能性を望めないなら、別の国として生きていたいということだ。
韓国でも若い世代の間では統一への関心が薄れつつある。統一研究院の調査によると、統一が「必要」と答えた割合は全体で52.9%だが、1991年以降生まれの若年層では46.5%にとどまった。統一の際には、韓国側が北朝鮮住民を支援するための経済的犠牲を強いられる可能性が高く、その後の社会的対立も懸念される。「一つの民族」という認識も薄れつつあり、統一を未来世代のために受け入れる意義を感じにくい。分断や統一に関する痛みを実感した経験がない。
MZ世代(1980年代~2000年代初旬の生まれ)である金総書記も似たような感覚を持っているのかもしれない。
◇党総会、朝露関係、第2次トランプ政権
韓国政局はまだ流動的で、尹大統領の去就や政権交代の行方は不透明だ。一方、韓国では軍に対する捜査が進み、軍事機密の暴露が相次いでいる。北朝鮮にとっては、韓国の軍事的準備状況を把握できるチャンスだろう。戒厳状況下での韓国軍の武装レベルが露呈することは、北朝鮮に願ってもない情報を与えることになり、憂慮される事態だ。
北朝鮮は今、年末の党中央委員会総会に向け、経済目標達成のために総力を挙げている。またロシアとの軍事・経済的関係の強化や、トランプ前米大統領の再登板に向けた新たな戦略立案など、国内外で優先すべき課題も多く、韓国の混乱に関与する余裕がないとの見方もある。
北朝鮮側は自ら尹政権批判を繰り返さなくても、韓国国内の反政府側が勢いを得て行動を拡大するという展開を見込んで、当面は抑制的な対応を取ると考えられる。南北軍事境界線付近でも衝突音は聞こえてこないようだ。