本多忠勝の娘で徳川家康の養女となった稲(小松姫)とは、どんな女性だったのだろうか
大河ドラマ「どうする家康」では、本多忠勝の娘の稲(小松姫)が登場した。なぜか、父の忠勝を恐れていたようだ。稲はどのような女性だったのか、考えてみることにしよう。
天正元年(1573)、小松姫は本多忠勝の娘として誕生した。ただし、母については諸説あり、阿知和玄鉄の娘、あるいは松下弥一の娘といわれている。幼名は、於子亥(小松姫、稲姫)である。残念ながら、幼少期における稲の生活ぶりなどは、詳しくわかっていない。
天正10年(1582)3月、織田氏の攻撃により武田氏が滅亡し、その3ヵ月後に本能寺の変で織田信長が横死した。信長の死後、上杉氏、徳川氏、北条氏などの諸大名が信濃・上野などを領有しようと争った。その後、小牧・長久手の戦いを経て、豊臣秀吉が政治の主導権を握ったのである。
天正13年(1585)になると、徳川家康は北条氏直と和睦した。その際、氏直が真田昌幸が領する沼田領の引き渡しを条件としたので、家康はその旨を昌幸に通告したが拒否された。
そこで、同年に家康は昌幸の上田城(長野県上田市)を攻撃するが、失敗に終わった。その年、昌幸は上杉景勝の仲介により、秀吉に臣従することになった。昌幸が上洛して秀吉と面会し、名実ともに配下に収まったのは、天正15年(1587)のことである。
翌天正14年(1586)、家康は再び上田城を攻撃しようとしたが、秀吉の命により中止となった。昌幸は家康の与力となったが、両者の間にわだかまりがなかったといえば、それは嘘になるだろう。これを機にして、両者は関係を強固にするため、婚姻関係を結ぶことにした。明らかな政略結婚であった。
こうして、昌幸の長男・信幸(信之)は、正室として稲を迎えたのである。先述のとおり、小松姫は本多忠勝の娘だったが、信幸への輿入れに際して、徳川家康の養女となっていた。このような形式は、当時は決して珍しくなかった。当時、小松姫は18歳で、夫の信幸は7歳年上の25歳だった。
すでに、信幸は清音院殿(真田信綱の娘)を正室に迎えていた。そこで、稲との結婚を機会として、清音院殿を側室にしたという。残念ながら、清音院殿の生涯はほとんどわかっていない。信幸と稲の間には、二女三男の子に恵まれたのである。
こうして稲は、信幸の妻として真田家を守り立てた。小松姫が表舞台で活躍するのは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦を待たなくてはならない。