【土浦市】今昔さんぽ③賑わいの土浦・第2章の開幕!かつての目抜き通り・敷島町と三好町の貝ボタン工場
江戸時代の土浦は、水戸街道沿いに町並みが造成されて賑わいを見せましたが、元号が明治・大正時代へと移り変わり、町に鉄道が開通すると、土浦駅前を中心に発展を遂げていきます。現在の桜町一丁目にあたる旧敷島町は、目抜き通りとして賑わっていました。海外輸出も行っていた貝ボタン工場もこの界隈にあったそうです。
上の写真は、『絵葉書にみる土浦』(土浦市立博物館)より引用しています
旧町名の由来になった貝ボタン工場
土浦駅の西口を背にして左側、徒歩5分ほどで桜川の土手にたどり着きます。
その土手を桜川橋方面に向かってさらに歩んでいくと、ふと野田礼子さんが足を留めて「ここが旧町名の由来になった工場のあった場所です」と教えてくれました。
野田さんは、土浦市立博物館の学芸員で、今回の土浦新市街地の今昔を解説してくれる案内人です。
そのスポットとは、2階建ての駐車場付近。さて、こんなところにどのような由来が?
野田さん「この駐車場のあった辺りには貝ボタンの工場があったんです。大正4年(1915)に霞ヶ浦で採れるカラスガイの貝殻でボタンを作る工場が設立されて、その工場の創設者である三好亀久寿(みよしきくじゅ)の名から三好町が生まれたそうです」
貝ボタンは輸入された貝ではなく、霞ヶ浦で採取できるカラスガイを原料にしていました。のちには、アメリカや中国から海の貝を輸入して高級貝ボタンを作り、海外輸出も行っていたそう。
土浦駅前、ウララ3ビルの道路を挟んで反対側の側道には、旧町名の由来が記された三好町の石柱が設置されています。ちなみにこうした石柱は、市内20カ所に設置されているので、探して回るのも面白いです。
桜川橋は海軍航空隊の玄関口
貝ボタン工場跡地からさらに歩みを進めて桜川に架かる橋までやってきました。
野田さん「この橋は『桜川橋』といって、茨城県で最も古い舗装した道路の橋といわれています。この橋から阿見町に向かって延びている国道125号を大正時代には「海軍道路」と呼んでいました。土浦市と阿見町を結ぶ橋は、海軍航空隊の玄関口だったのです」
海軍航空隊の人たちでも賑わった敷島町
桜川橋から土浦駅方面に向かう一帯は「敷島通り」と呼ばれていました。
上の写真は、昭和13年(1938)の敷島通りの様子です。大水害に見舞われた際の写真なので地面は水浸しになってしまっていますが、道の両側には所狭しと店が並んでいる様子が分かります。
海軍航空隊の隊員やその家族などの関係者の利用を期待した店は、自動車商会や自転車店、洋品店や写真館などジャンルは多岐にわたります。
左の写真は平成22年(2010)頃の敷島通りの様子です。店がひしめく時代に比べると落ち着いた感があり、ほとんどの店がなくなってしまいましたが、信号の先に立つ「富山人形店」は長きにわたってこの通り沿いで商売を営んでいました。
洋風な三角屋根と蔵造りのような和風建築が融合した「富山人形店」は、大正時代から昭和初期にかけては人形だけでなく、記念ハガキなども販売していたそう。
上の写真は、昭和15年(1940)に作られた絵はがきセットの袋です。
「名勝史蹟研究会」の下に「富山」の印がみえます。
富山人形店は人形の目利きの良さで定評のあった店です。
絵はがきは、土浦土産としても喜ばれたことでしょう。
土浦の魅力をより多くの人に知ってほしいという思いも伝わってきます。
敷島通りを擁する敷島町の由来が記された石柱は、八間道路と国道125号の交差点付近に。当時の賑わいに想いを巡らせながら、由来を読んでみると感慨深いものがあります。
今回は、現在の桜町一丁目にあたる、旧町名の敷島町と三好町の移り変わりをご紹介しましたが、次回は桜川沿いから桜町二丁目・三丁目を見て歩き、新市街地と呼ばれる街の全体像をつかんでまいります。
土浦の城下町とその周辺にまつわる歴史を垣間見る「ハッケン!土浦まち歩き」もいよいよフィナーレです!
写真協力・・・ぼくの近代建築コレクション