神君伊賀越の際、徳川家康の手勢はたった34人ではなく、実際はもっと多かった。
今回の大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康が苦心惨憺して神君伊賀越をさせた。史料によると、徳川家康の手勢は34人だったというが、実際はもっと多かったという説があるので考えてみよう。
天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が勃発すると、織田信長は自害して果てた。同じ頃、徳川家康は和泉堺(大阪府堺市)で物見遊山を楽しんでおり、その日は信長と京都で面会する約束だった。しかし、信長の死により、それどころではなくなった。
当時、堺を発った家康は、飯盛(大阪府四條畷市)で茶屋四郎次郎から信長の死を聞かされた。いったん家康は自害しようとしたが、家臣らの説得で思い止まった。その後、家康は神君伊賀越に成功し、無事に本国の三河国にたどり着いたのである。
『石川忠総留書』によると、家康に従ったのは、本多忠勝らわずか34人だったという。あまりに少ない手勢だったので、家康の一行は途中で敵などに出会い、苦心惨憺して三河国に逃げ帰ったといわれている。しかし、家康の手勢が少なかったことについては疑問がある。
『イエズス会日本報告集』によると、家康は十分な資金と兵力を確保していたと書かれている。『信長公記』にも、家康は軍勢を引き連れていたと記されている。具体的な人数は書かれていないが、少なくとも34人ということはありえないようだ。
家康の軍勢が少なくとも数百人いたことは、『家忠日記』の記述で判明する。同書によると、家康の軍勢は、道中で200人ほどが討たれたというので、これ以上の数だったのはたしかだ。つまり、家康は神君伊賀越の際、わずかな手勢で三河に帰還したというのは、少しばかり疑問が残る。
家康の一行が道中で襲撃されたのは事実であるが、なぜわずかな手勢にこだわったのだろうか。それは、やはり家康の神がかり的なところを見せたかったのではないかと推測される。死の危機に直面したにもかかわらず、見事に切り抜けたことをアピールしたかったのだろう。
そもそも家康は堺に滞在しているときから、十分な数の家臣や配下の将兵を従えていた可能性が高い。神君伊賀越の成功のカギは、十分な資金力と兵力にあったのではないだろうか。
主要参考文献
平野明夫「「神君伊賀越え」の真相」(渡邊大門編『戦国史の俗説を覆す』柏書房、2016年)