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徳川家康は石田三成が挙兵し、伏見城に攻めることを知りながら、鳥居元忠に守備を命じたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康は石田三成が挙兵し、伏見城に攻めることを知りながら、鳥居元忠に守備を命じるという場面があった。はたして、この話は史実と認めてよいのか考えてみよう。

 慶長5年(1600)、家康は会津(福島県会津若松市)の上杉景勝に対して、繰り返し上洛するよう求めた。しかし、景勝は家康の要請を拒否したので、家康は会津征討を決意した。

 同年6月16日、大坂城(大阪市中央区)を出発した家康は、その日の夕方には伏見城(京都市伏見区)に入城したのである。まず、家康と元忠にまつわる逸話を紹介しておこう。

 同日の夜、家康は股肱の臣である鳥居元忠と酒を酌み交わした。そのとき家康は、多くの兵を引き連れていくので伏見城にわずかな兵しか残せないことを元忠に詫びた。家康は三成が挙兵することを予感していたというのが、大きなポイントである。

 元忠は家康が天下を取るためなら、1人でも多くの兵が必要であることに理解を示し、万が一のときには討ち死にする覚悟であることを伝えた。この言葉を聞いた家康は、深夜まで元忠との別れを惜しみ、酒を酌み交わしたと伝わっている。

 映画やドラマなどでお馴染みのシーンであり、観る者を感動させるのであるが、むろん一次史料ではこのような2人の会話を確認することができない。

 家康が元忠に守備を任せたこと、三成が挙兵するかもしれないこと、元忠が討ち死にする覚悟であることは、『寛政重修諸家譜』や『鳥居家中興譜』といった二次史料で確認することができる。はたして、この話を史実とみなしてよいのだろうか。

 実は、家康が会津征討に出発した時点で、三成はもとより、残りの3奉行(長束正家、増田長盛、前田玄以)が謀反を起こす気配はなかった。家康も彼らが決起しないと予想し、会津征討に向かったのである。彼らが挙兵し、「内府ちかひの条々」を発したのは、7月17日のことである。

 この時点で、家康は会津に行軍中だったので知る由がない。家康が挙兵の事実を知り、驚愕したのは7月23日頃と考えられる。そこで、驚いた家康は従軍した諸将を集め、三成を討伐すべく、西国に進路変更することを告げたのである。

 常識的に考えると、三成が挙兵することを知りながら、わずかな兵しか伏見城に残さず出陣するというのもおかしな話である。京都には天皇、大坂には豊臣秀頼がおり、三成の挙兵により家康が失脚する可能性が十分にあった。

 その点を考慮すれば、家康が三成の挙兵計画を知りながら、あえて寡兵しか残さず、元忠に伏見城の守備を任せたというのは、非常にリスクが高いことが歴然としている。むしろ、多くの兵を残して、三成への対策を怠らないはずである。

 では、このエピソードをどのように考えるべきなのか。おそらく元忠自身も三成が挙兵するとは考えておらず、大変驚いたはずである。元忠は寡兵でもって、三成勢と戦ったものの討ち死にした。

 しかし、それではあまりに元忠が無念である。のちになって、鳥居家の家譜などが編纂される際、あえて元忠の奮戦を武士としての気概を示した美談に仕立て上げたのではないかと考えられる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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