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岐阜城あっけなく開城す!織田信孝のあまりに無念な最期

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岐阜城。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、織田信孝の最期があまり描かれていなかった。信孝の最期に至る経緯について、詳しく紹介することにしよう。

 天正11年(1583)4月24日、北庄城が羽柴秀吉によって落とされ、柴田勝家は自害して果てた。盟友の勝家が秀吉に討たれたので、信孝の立場は極めて厳しくなった。

 すでに同年1月、信孝の家臣・玉井彦介は香宗我部親泰(長宗我部元親の弟)に書状を送り、長宗我部氏と誼を通じようとした(「香宗我部家証文」)。当時、元親は四国支配をめぐって、秀吉との関係が良好ではなかったので、渡りに船という提案だった。

 同年3月、信孝は元親に書状を送り、勝家と呼応して挙兵する旨を知らせた(「土佐国蠧簡集」)。このように両者は関係を強めたが、最終的に長宗我部氏は援軍に来なかったのである。元親は信孝に呼応して秀吉に挙兵しても、とても勝ち目がないと判断したのだろう。

 同年4月11日、秀吉は信孝の本拠の岐阜に出陣中の諸将に書状を送った(「個人蔵」文書)。岐阜で敵が軍事行動を起こした際、少しくらい放火しても、町中が焼けなければ、別に問題はないと伝えている。つまり、この時点において、秀吉の軍勢が岐阜城下に在陣中だったことが判明する。

 同年4月24日の織田信雄書状(吉村又吉郎宛)により、この頃に信雄が美濃国に攻め入ったことが確認できる。こうして信孝は岐阜城を開城し、秀吉に屈したのである。その後、信孝は亡くなったが、詳しい経緯についてはわかっていない。

 『多聞院日記』同年5月10日条によると、信孝は野間の内海(愛知県美浜町)で腹を切ったと書かれている。切腹を命じたのは、兄の信雄だった。この点については『川角太閤記』といった二次史料にも書かれており、野間大坊大御堂寺(同上)の安養院には信孝の墓がある。

 勝家と信孝が死んだことにより、秀吉は本懐を成し遂げた。同年5月7日、秀吉は勧修寺晴豊に書状を送り、朝廷から使者として吉田兼見が派遣されたことを謝した(「安土城考古博物館所蔵文書」)。もはや秀吉は、朝廷から信頼される存在となっていたのである。

 こうして秀吉は、敵対した信孝を死に追いやったが、信雄や徳川家康は警戒感を強めたに違いない。特に、信雄は織田一門として、三法師を支えていたので、その思いは強かった。やがて、信雄は秀吉との対決姿勢を鮮明にするのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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