【深掘り「鎌倉殿の13人」】梶原景時の讒言で悲惨な目に遭った武将3選
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の28回目では、ついに梶原景時が鎌倉から逃走した。その原因となった景時の讒言で悲惨な目に遭った武将3人について、詳しく掘り下げてみよう。
■源義経
元暦2年(1185)2月10日、源義経は京都を発ち、平家のいる屋島(香川県高松市)へと向かった。義経は熊野水軍、伊予水軍、摂津渡辺党を味方とし、万全の体制を築き上げていた。
義経軍が集結したのは、摂津渡辺(大阪市)である。そこで、義経は軍議を催し、景時らと今後の作戦を協議した。その際、景時は「逆櫓」を取り付け、船がバックできるようにしてはどうかと提案したのである。
しかし、義経が「逆櫓を付けると、兵が退きたがる」と反対すると、景時は「進むだけで、引くことを知らない武者は猪武者である」と反論した。義経は「最初から逃げる準備をしていては、勝てる戦にも勝てない。それならば猪武者で結構だ」と言い放ち、逆櫓の取り付けを採用しなかった。
このときの遺恨により、景時は頼朝に義経の讒言をし、陥れたという。しかし、近年の研究によると、景時は義経と行動をともにしておらず、範頼に帯同していたと指摘された。したがって、義経と景時の逆櫓論争は、虚構の可能性が高いだろう。
■畠山重忠
文治3年(1187)、畠山重忠が地頭を務める伊勢国沼田御厨(三重県松阪市)で、代官が狼藉に及んだ。代官がやったことだが、重忠は責任を痛感していた。いったん重忠は罪を問われたが、のちに頼朝は許した。重忠のこれまでの功績を認めたからだろう。
しかし、重忠は罪を恥じて、武蔵国菅谷館(埼玉県嵐山町)で一族とともに逼塞した。これを知った景時は、「重忠に謀反の意あり」とみなした。重忠はあまりのことに自害しようとしたが、下河辺行平の勧めもあったので鎌倉で弁解しようとした。
景時は重忠に対して、謀反の意がないことを記した起請文を差し出すよう要求した。ところが、重忠は謀反の意がないことを主張し、決して起請文を書かなかった。結局、頼朝は重忠を信用して許したという。重忠は難を逃れたのである。
■結城朝光
正治元年(1199)10月、朝光は亡き頼朝の思い出を語り、「忠臣は二君に仕えずというのだから、出家すべき」だったと述べ、世情が穏やかではない旨の発言をした。これは「頼家には仕えたくない」とも取れる発言と解釈され、問題視された。
朝光の発言を問題視したのが、景時だった。景時の意図は不明であるが、この一言は大変な事態を招きかねなかった。驚いた朝光が三浦義村に相談すると、景時討伐の気運が大いに高まったのである。その理由は、これまでの景時の讒言に対して、御家人の面々が怒り心頭だったからだ。
同年10月、千葉常胤・三浦義澄・千葉胤正・三浦義村・畠山重忠・小山朝政・結城朝光・足立遠元・和田義盛・比企能員ら御家人66名は、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)に結集した。
景時に恨みを持っていた中原仲業が景時の弾劾状を作成すると、66名の御家人はそれに署名した。そして、弾劾状は大江広元に託され、頼家に差し出されたのである。これが、景時の没落に繋がったのだ。
■まとめ
景時の讒言に関する逸話は、ほぼ『平家物語』、『吾妻鏡』などの二次史料に書かれたものである。考えようによっては、景時を貶めようとした節があるようにも思える。したがって、話の内容を鵜呑みにするのではなく、少しは割り引いて考えるべきなのかもしれない。