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斎藤義龍による織田信長暗殺事件の顛末とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 悲しいことに、世界的にも暗殺事件は絶えることがない。戦国時代にも暗殺事件があり、斎藤義龍は織田信長を殺害しようと計画していた。以下、『信長公記』により、その全貌を紹介することにしよう。

 弘治2年(1556)4月、義龍は父の道三を攻め殺した。信長の妻(帰蝶/濃姫)が道三の娘だったこともあり、以後、信長は義龍を討つべく、美濃に兵を送り込んだ。こうして、両者は交戦状態になった。つまり、信長からすれば、義父を討った義龍が許せなかったのである。

 永禄2年(1559)2月、信長は80人の家臣を引き連れ、上洛することになった。この情報を入手した義龍は、配下の小池吉内ら30人を遣わし、信長の暗殺を命じたのである。

 吉内ら一行は、近江志那(滋賀県草津市)で渡し船に乗ったところ、たまたま乗り合わせた丹羽兵蔵(信長配下の那古野弥五郎の家臣)が一行の1人に生国を尋ねた。その質問に対しては、三河であるとの答えだった。

 しかし、一行の様子は何かと不審な点があるように感じた。しかも、一行の間の会話では、信長を意味する「上総」(信長の官途は上総介)という言葉も出てきた。ますます、おかしい。

 そこで、兵蔵は一行が泊まった宿所に少年を遣わし、状況を探らせたのである。戻った少年の報告により、一行は義龍の命によって、鉄砲で信長を狙撃する計画があることを知った。

 驚いた兵蔵は、ただちに信長の宿所に急行し、信長配下の金森長近、蜂屋頼隆に信長暗殺計画があると通報し、信長への御目通りを願ったのである。信長に面会した兵蔵は、暗殺計画の次第を事細かに報告した。

 兵蔵は一行の宿所に目印を付けるなどし、その位置を把握していた。『信長公記』には「こざかしき者(小賢しき者)」と書かれているので、兵蔵はその才覚が高く評価されたのである。

 翌朝、兵蔵らは一行の宿所に赴き、立売(京都市上京区)に来るよう伝えた。そこには信長自身が待ち受けており、一行は激しく驚いた。信長は一行を一喝すると、「ここで相手をしてもいいぞ!」と言い放った。これには、さすがの一行も驚いた模様である。

 その後、難を逃れた信長は京都を出発し、近江守山(滋賀県守山市)に宿泊すると、翌日には居城のある尾張清洲(愛知県清須市)に到着したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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