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追悼ロビン・ジョージ【前編】/英国ハード・ロック幻のギター・ヒーローがその軌跡を語る

山崎智之音楽ライター
Robin George / courtesy of Cherry Red UK

ロビン・ジョージはブリティッシュ・ロックの“幻”のギター・ヒーローだ。

1956年4月8日、ウルヴァーハンプトン生まれ。1983年に12インチ・シングル『伝説の騎士 The History 12”』(1983)で華々しくメジャー・デビューを飾った彼は一躍、英国のハード・ロック界で注目され、ファースト・アルバム『燃えるハートライン Dangerous Music』(1984)は荒々しいヘヴィ・サウンドとソフィスティケートされたソングライティングとプロダクションが新時代の到来を予見させた。

フィル・ライノット、ロバート・プラント、ジョン・ウェットン、グレン・ヒューズらと共演、元ダイアモンド・ヘッドのショーン・ハリスとのスーパーグループ、ノートリアスでアメリカ市場を照準に捉えるなど、ワールドワイド規模での成功が期待されたロビンだが、徐々にペースダウン。それでもコンスタントに作品を発表し、ファンを喜ばせてきた。

2024年4月26日、彼が亡くなったというニュースに世界は悲しみに包まれた。68歳と、若くはないもののまだ行ける年齢での逝去に、ご冥福をお祈りしたい。

このインタビューは2019年2月12日、スペインに住む彼と電話で行ったものだ。諸事情により当時未公開となっていたものだが、彼の音楽と人生のセレブレーションとして、ぜひ読んでいただきたい。

なお、本記事はロビンの人柄を伝えるべく、可能な限りインタビューの会話をそのまま再現した。そのため話の時系列が前後したりもするが、それも含めて楽しんでいただけたら幸いである。

Robin George『Dangerous Music』ジャケット(Angel Air / 現在発売中)
Robin George『Dangerous Music』ジャケット(Angel Air / 現在発売中)

<音楽を生み出したいというほとんど強迫観念に近い欲求がある>

●現在どんな生活をしていますか?

スペインのマラガとグラナダの中間地点の山地で太陽に当たって、曲を書いて...昔と較べるとレイドバックした生活だよ。うちの奥さんのデビーはスペイン語が堪能だから、細かいことは通訳してもらっている。インターネットはミュージシャンの作業環境を一変させたね。スペインからアメリカのナッシュヴィルやドイツのミュージシャンと共演出来るし、イギリスに住むシンガーのジェニー・ダレンとの音源のやり取りも出来る。俺のアルバムには流通が良くないものもあったけど、今ではダウンロードや配信で世界中の音楽ファンに聴いてもらえる。素晴らしいことだよ。音楽ビジネスはトリッキーでね。最高のチャンスが訪れたと思ったら、スルッと手から滑り落ちていく。正直、幻滅することも多かった。今では業界とは距離を置いて、自分が信じる音楽をやるようにしているんだ。

●ロビン・ジョージズ・ラヴパワーのアルバム『Lovepower & Peace』(2011)など、日本であまりCDを見かけることがなかった作品をネット配信で聴くことが出来て嬉しいです。

俺が賛同するチャリティ団体について世間に知ってもらって、活動資金を捻出するためのアルバムだったんだ。これまで共演してきた仲間、総勢60人に声をかけてザ・ビートルズの「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」をやったり、すごく楽しかったよ。もちろん儲けになる仕事ではなかったけど、人の役に立てればと思ったんだ。

(注:ロビンとラヴパワーは2011年、東日本大震災に襲われた日本を支援する動画「Robin George and LovePower joins Artists Support Japan with" Friends"」も公開している)

●日本に来たことはありますか?

いや、残念ながら一度もない。1984年に『燃えるハートライン Dangerous Music』を出して、大規模なワールド・ツアーをやる話もあったんだ。でも、それはレコード会社のゴタゴタがあったりして実現しなかった。その後もいくつかのバンドで日本に行く可能性があったけど、結局どれもタイミングの問題で実現しなかったんだ。2000年代の初め、ピート・ウェイ(ベース/UFO)、クリス・スレイド(ドラムス/AC/DC)、スパイク(ヴォーカル/クワイアボーイズ)とのプロジェクト、ダメージ・コントロールでジャパン・ツアーをやる話もあったんだよ(注:おそらく2007年)。スパイクの体調が良くなくて中止になってしまったけど、今から思えば別のシンガーを起用するか、俺が歌ってでも、日本でショーをやるべきだったね。でもそのときは、きっとすぐに次の機会があると思っていたんだ。

●あなたは近年でも『Painful Kiss』(2016)、『Rogue Angels』(2018)など、優れたリーダー・アルバムも発表するなど、充実した活動をしてきましたが、どんなことがモティベーションになっていますか?

『Rogue Angels』の曲自体はレコーディングの直前に書いたものだったけど、自分の中に溜め込んでいた感情を吐き出したアルバムだった。決してネガティヴなものではなくて、クリエイティヴな衝動が世に放たれるのを待っていたんだよ。“作らねばならなかった”アルバムだと思うし、聴けばそんなフィーリングが伝わってくるだろう。多かれ少なかれ、それはどの作品についても言える。音楽を生み出して解き放ちたいという、ほとんど強迫観念に近い欲求があるんだ。

●ジェニー・ダレンとのコラボレーション・アルバム『SavageSongS』(2019)はどのようにして実現したのですか?

ジェニーのことはずっと前から知っていたんだ。あるとき彼女から曲を書いて欲しいと頼まれて、アルバム『Ladykiller』(2017)用に「Selfish」という曲を送った。使われたのは本来のヴァージョンではなかったけど、まあそれはそれとして、ね。彼女のヴォーカルはすごく個性的だし、一緒にやらないかと声をかけたんだ。20曲ぐらいを聴かせてみて、彼女が気に入った12曲をレコーディングすることにした。俺がソロ、あるいは他のアーティストとやった曲の再レコーディングもあるけど、ジェニーは個性豊かなスタイルで歌ってくれたよ。彼女はハードにも歌えるし、バラードも歌える。そのコントラストが絶妙なんだ。ジェニーは70歳近くだけど、全然衰えることのない“レディキラー”だ。最高にロックしているよ。

●ジェニーとのライヴではどんな曲をプレイするのですか?

スペインで数回ライヴをやったけど、新作から「Savage Song」、あと俺の『Bluesongs』(2004)から数曲をピックアップした。それからザ・ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンなどのクラシック・ロックの名曲をプレイしたんだ。1960年代後半から1970年代前半のスペインはフランコ政権下で、英米のロック・バンドがツアーすることが出来なかった。そのぶん今、彼らに楽しんでもらおうと考えたんだ。「ホンキー・トンク・ウィメン」「ゲット・バック」「迷信」とかをプレイした。機材トラブルはあったけど何とか無事に最後までプレイ出来たよ。楽しかった。

●『Rogue Angels』と『SavageSongS』のバック・ミュージシャンはかなり共通していますね?

その通りだ。頼りになるミュージシャン達で、ジョークを飛ばし合う友人だよ。チャーリー・モーガン(ドラムス)はエルトン・ジョンと一緒にやっているセッション・プレイヤーだ。メル・コリンズ(サックス)はキング・クリムゾンなどと共演している大ベテランで、1979年ぐらいにデヴィッド・バイロンのバンドで知り合って、一緒にツアーしたんだ。メルは俺の『伝説の騎士 The History 12”』にも参加してくれた。彼らのようなクリエイティヴな人達と共演することで、俺自身が多くのことを学ぶことが出来る。いろんなことに気付かされるし、レコーディング・セッションが終わるたびに自分がより良いミュージシャンに成長したことを感じるんだ。それにミックスを担当してくれるクラウス・ボールマンも才能に溢れていて、チームに不可欠な一員だ。

●元ダイアモンド・ヘッドのショーン・ハリスとのプロジェクト、ノートリアスはアルバム『Notorious』(1990)を発表して消滅してしまいましたが、SNSで再合体について言及していましたね。

うん、今、一緒に新しい曲を書いていて、とてもインスピレーションに富んだオリジナル曲なんだ。もう5曲ぐらい書いている。まだそれがノートリアス名義になるか判らないけど、ぜひ完成させたいね。ショーンは音楽シーンから消息を絶つこともあるけど、今ではエネルギーに満ち溢れている。彼は最高のロック詩人なんだ。俺がアイディアを彼に伝えると、スラスラと歌詞にしてしまう。どこから閃きを得るのか、俺には皆目見当が付かないよ。シンガー、そしてフロントマンとしても一流だし、早くアルバムを作りたい。チャーリー・モーガンやメル・コリンズにも加わってもらうつもりだ。

(注:このプロジェクトは2020年のコロナ禍で棚上げとなり、アルバムが完成されることはなかった)

●チャーリー・モーガンといえば、ゲイリー・ムーア&フィル・ライノットの「アウト・イン・ザ・フィールズ」(1985)でもプレイしていました。

チャーリーと知り合ったのは1980年代初め、俺がロンドンのスタジオで作業をしていた頃だった。デヴィッド・ボウイやエルトン・ジョンを手がけたプロデューサーのガス・ダッジョンが彼を連れてきたんだ。アルバム『燃えるハートライン Dangerous Music』ではデイヴ・ホランドがドラムスを叩いてくれたけど、彼の“本業”のジューダス・プリーストとスケジュールが被ったんで、チャーリーを推薦してくれたんだよ。それ以来の付き合いなんだ。彼はいろんなアーティストとのセッションで忙しいけど、出来るだけ一緒にやってもらうようにしているよ。

●自分のリーダー・プロジェクトでのライヴはやっていますか?

ここ数年やっていないんだ。でも世界各地のファンがライヴを見たいと言ってくれるし、ネット経由で若い世代のリスナーが「聴いてファンになりました!」と言ってくれる。そんな彼らのためにぜひツアーをやりたいと考えているよ。「燃えるハートライン」は今でも人気があるし、最近の曲もきっと気に入ってもらえるだろう。スリー・コードに乗せたシンプルな曲も多いんだ。

●1980年代にトレードマークだったB.C.リッチの10弦ギターは今でも弾いていますか?

最近は弾いていないんだ。今でも家の壁にかけて、いつでも手に取れるようにしているけどね。今メインで弾いているギターもB.C.リッチで、1984〜5年に手に入れたシルバーの6弦モデルなんだ。デザイナーのニール・モーザーが直接関わっている時代の“ビッチ”だよ。アンプのナチュラルな歪みだけで最高の鳴りなんだ。ペダルもエフェクトも要らない。B.C.リッチはカスタムのモッキンバードも作ってくれたけど、ロゴやバッジ、ステッカーなどでロビン・ジョージと関連づけられるのはやはり“ビッチ”だろうね。それ以外はチリ Chiliカスタム・ギターも弾いている。オーストリアのギター職人で、サウンドもヴィジュアルもビューティフルなんだ。普段は壁に掛けているけど、ギターは弾くべきものだから、家にいるときはいつも弾いている。

●B.C.リッチの“ビッチ”はいつから弾くようになったのですか?

あのギターは1980年代にクライマックス・ブルース・バンドのピート・ヘイコックから譲ってもらったんだ。ピートの前にはスレイドのノディ・ホルダーが持っていたそうだ。由緒の正しいギターなんだよ。ピートは俺のヴィジュアル・イメージを確立させることに貢献したことについて、すごく喜んでくれた。彼が亡くなるまで(2013年)ずっと親しかったし、ミュージシャンとして人間として多大なインスピレーションを得たよ。

Robin George live in the 1980s / photo by Roy Cooke
Robin George live in the 1980s / photo by Roy Cooke

<ある日突然、スターになったわけではない>

●1984年のアルバム『燃えるハートライン Dangerous Music』は今日でも1980年代英国ハード・ロックの名盤と呼ばれますが、作ったときのことを教えて下さい。

すべてがあっという間だった。当時は6週間でレコーディングとミックス、7インチと12インチ・シングル用のエディット、ミュージック・ビデオのすべてをやったんだ。海に飛び込んで、渦巻に巻き込まれるようだったよ。“ブロンズ・レコーズ”のオーナー、ジェリー・ブロンはアルバムをプッシュしてくれたし、感謝している。

●『燃えるハートライン Dangerous Music』ではヘヴィなギター・サウンドとプログラミングなど、当時のテクノロジーを融合させていましたが、どのようにしてそんなアプローチに至ったのですか?

最初からテクノ・メタルを目指したわけではなかったんだ。小さなホーム・スタジオでドラム・マシンを使って曲を書いていた。それにギター・シンセやベース・シンセを取り入れていったらフューチャリスティックで面白いサウンドになったんだ。当時の他のアーティストとは異なったスタイルだったし、ロビン・ジョージというアーティストのアイデンティティとして差別化を図れるようになった。最近では生のエモーショナルなロックを追求しているけどね。だから地下室にたくさんの使わない昔の機材があるよ。

●「燃えるハートライン」の中世風のミュージック・ビデオについて、今ではどう思いますか?

あのビデオは決してシリアスなものではなかった。俺もスタッフも楽しみながら作ったもので、今でも当時を思い出すと顔に笑みがこぼれてしまうよ。子供の頃以来、馬なんて乗ったことがなかったんだ。カメラマンを乗せたバイクが先を走って、それを追いかけなければならなかった。森の中で木の枝に引っかかったり、落馬して首の骨を折ってもおかしくなくてドキドキしたよ。でも幸い大きな事故もなく、無事撮影は終了した。懐かしいビデオだね。大好きだよ。

●あなたは1983年にイギリスのヘヴィ・メタル誌“ケラング!”の表紙を飾るなど、音楽業界のプッシュを受けてきましたが、そんなコネクションはどのように築かれたのですか?

決してある日突然、スターになったわけではないんだ。そのずっと前から、ウースターの“オールド・スミシー・スタジオ”でデモをレコーディングしていた。そうするうちに、同じスタジオに出入りしていたダニエル・ブーンと友達になったんだよ。彼は1972年に「ビューティフル・サンデー」という曲をヒットさせた人だ。彼を介してスレイドのノディ・ホルダーやアルヴィン・スターダストとも知り合った。そうこうするうちにスタジオ作業に慣れて、ダニエルやロイ・ウッドのレコーディングでエンジニアを務めるようになったんだ。自分の曲を書き溜めていたから、聴いてもらったりした。それでヨーロッパをツアーした後、ライフ名義でリリースしたのがシングル「Too Late c.w Castles」(1980)だったんだ。ウルヴァーハンプトンの小さなインディーズ(“メディア・レコーズ”)からのリリースだったけど、けっこうラジオで流してもらったりした。そうして12インチ・シングル『伝説の騎士 The History 12”』をメジャーの“アリスタ”から出すことになったんだ。当時はメタル・ブーム(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル=N.W.O.B.H.M.)が下火になっていたこともあって、新しいヒーローが必要だった。それで俺が選ばれたってわけだ。“ケラング!”誌で表紙にしてくれたし、ファンから声をかけられるようになったよ。ただ、メディアがずっとバックアップしてくれたわけではなかったんだ。アルバム『燃えるハートライン Dangerous Music』のレビューでは「こんなの全然デンジャラスじゃない」とか、手のひらを返してきたよ(苦笑)。“ブロンズ・レコーズ”の閉鎖もあって、ハシゴを外された状況だったんだ。

後編記事ではロビンがフィル・ライノット、グレン・ヒューズ、ジョン・ウェットン、ロバート・プラント、ゲイリー・ムーアなど、ロックの盟友たちと歩んだ日々について訊いた。

【公式ウェブサイト】
http://www.robingeorge.co.uk/

【海外レーベルアーティストサイト】
https://www.cherryred.co.uk/catalogsearch/result/?q=robin+george

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,300以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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