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追悼ロビン・ジョージ【後編】/ロック・ギターの名手がフィル・ライノット、ジョン・ウェットンと歩んだ道

山崎智之音楽ライター
Robin George / courtesy of Cherry Red UK

2024年4月26日に亡くなったイギリスのハード・ロック・ギター・ヒーロー、ロビン・ジョージへの2019年の未発表インタビュー後編。前編記事では主に当時のリアルタイムのアーティストとしての彼に迫ってみたが、今回はフィル・ライノット、ロバート・プラント、ジョン・ウェットン、グレン・ヒューズ、ゲイリー・ムーアなど、盟友たちとの活動について振り返ってもらった。

Robin George『Dangerous Daze』ジャケット(Cherry Red / 現在発売中)
Robin George『Dangerous Daze』ジャケット(Cherry Red / 現在発売中)

<シン・リジィ再結成に誘われたんだ>

●シン・リジィのフィル・ライノットとはどのように知り合ったのですか?

シン・リジィのオーディションを受けたことがあるんだ。ゲイリー・ムーアが脱退した後(1979年)かな?フィルは俺を推してくれたけど、他の誰かが反対して実現しなかったらしい。俺のスタイルが気に入らなかったのか、当時まだ二十歳そこそこで若すぎると思われたのか...その数年後、1984年の初めだったと思う。アルバム『燃えるハートライン Dangerous Music』を作っている頃、マグナムのキーボード奏者マーク・スタンウェイが連絡してきた。俺はマグナムのセカンド・ギタリストとしてツアーに同行したことがあって(1983年)、マークとは友達だった。当時彼はフィルが率いるグランド・スラムの一員だったんだ。彼が「フィルと一緒に君の家に遊びに行っていい?」と言うから、快く招いたよ。フィルとマークは「ショウダウン」という曲でキーボードを弾いてくれた。そうしてフィルとも友人になって、ロンドンのキュー・ガーデンズにある彼の邸宅を何度も訪れて、一緒に曲を書いたんだ。彼のシングル「ナインティーン」でギター・ソロを弾いたのもこの時期だった。

●「ナインティーン」ではギターを弾いて、ミュージック・ビデオにも少しだけ出演していますね。

その通りだ。「ナインティーン」のプロモーションでテレビ番組に出演するためにニューカッスルに行って、その帰り道のことだった。フィルが「時間がかかったけど、シン・リジィを復活させようと思うんだ」と言ってきた。

●おおっ...!

「君にギターを弾いて欲しい」と言われたときは、飛び上がって喜んだよ。他のあらゆるスケジュールをキャンセルしてもやりたかった。その場にはドラマーのブライアン・ダウニーもいて「どうしようかなあ」みたいな表情を浮かべていたけど、フィルは本気だったんだ。フィルとは1985年のクリスマス近くまで新曲を書いていた。俺が家族とクリスマスを過ごすために帰るとき、車で駅まで送ってくれたけど、カーステレオで新曲を聴きながら「最高のアルバムになるよ!」と興奮していた。フィルが「帰り道にも聴きたいからテープを貸してくれる?年明けに返すから」と言うからテープを置いていった。それがフィルとの最後の会話となったんだ。年が明けて、1月4日にどこかのラジオ局から「フィルの死についてコメントして下さい」と言われて、頭の中が真っ白になったよ。後になっていろんな話が伝わってきたけど、彼はそれほどドラッグの問題が深刻だという様子ではなかったんだ。もっと酷い状態の人は大勢見てきた。たまに「腰が痛い」と言っていた程度だったよ。フィルは優れたミュージシャンで、それ以上に親しい友人だった。その前の年にデヴィッド・バイロンも亡くなっていたんだ。自分に何か出来ることがあったんじゃないか?と何度も問い直したよ。本当に悲しかった。でもフィルの最後の1年、一緒に活動出来たことは本当に光栄に思っているよ。最後にフィルに渡したテープを返してもらえなかったのは残念だけどね。どこかにマスターがあればもう一度聴き返したい。フィルの家の庭には小屋があって、真夜中に8トラック・レコーダーでジャムを録音したんだ。曲として完成していなくて、リフやアイディアの断片とかね。

●もし1986年にシン・リジィ再結成が実現していたら、メンバーはどうなっていたでしょうか?フィル、ブライアン、あなたの3人?それともスコット・ゴーハムにも声をかけていたでしょうか?

シン・リジィは本来ツイン・ギター編成のバンドだし、もう1人ギタリストを入れていただろうね。でも、そこまで話が進んでいなかったんだ。フィルが誰に声をかけるか、聞く機会はなかった。スコットだったのか、別のギタリストだったのか...あの時点ではまだフィルが作る予定だったソロ・アルバムの制作にも入っていなかった。シン・リジィ再結成があったとしても、その後の話だったよ。

●1985年7月に開催された空前のライヴ・イベント“ライヴ・エイド”の発起人はボブ・ゲルドフとミッジ・ユーアという、どちらもフィルと縁のあるミュージシャンでしたが、フィルは出演を要請されなかったことに落胆していたでしょうか?

決して長い年月ではないけど、フィルとはいろんな話をした。音楽のこと、人生のこと、友達のこと...でも“ライヴ・エイド”のことは話題に出なかった。フィルはフィルだった。落ち込んでいてもそれを外に見せることはなかったよ。ロンドンの街に繰り出して、クラブやパブに顔を出して、服やレコードを買って...それに彼はお母さん、そして2人のお嬢さんのことを愛していた。そしてファンもフィルを愛していたんだ。みんながフィルを取り囲むと、彼はそこにいる俺を指して「彼はロビンっていうんだ。クールなギタリストだぜ」と紹介してくれた。フィルが亡くなってから、彼がドラッグ中毒の人格破綻者みたいに雑誌に書かれていたけど、全然そんなことはなかった。誰にでも寛大で親切な人だったよ。

Robin George / courtesy of Cherry Red UK
Robin George / courtesy of Cherry Red UK

<ロバート・プラントとの共演のマスター・テープを盗まれてしまったんだ>

●現デフ・レパードのヴィヴィアン・キャンベルもキュー・ガーデンズのフィル宅に出入りしていたそうですが、彼とは面識がありましたか?

フィルの家では連日パーティーが開かれていたし、誰と会ったかは正直覚えていないんだ。モデルみたいな美人も大勢いたから、そっちに気を取られて、ギタリストのことは目に入らなかったかも知れない(笑)。

●あるとき、パーティー明けでフィルが2階の寝室で寝ていて、ヴィヴィアンが台所でお茶を飲んでいるとゲイリー・ムーアが家を訪れて、ヴィヴィアンをドラッグの売人だと思ったのか、つっけんどんだったと話していました。あなたはゲイリーと知り合いでしたか?

うん、ゲイリーのロンドン“ハマースミス・オデオン”公演にフィルがゲスト出演したとき(1985年9月)、俺も連れていってもらったんだ。バックステージで話し込んで、意気投合したよ。アンプ・メイカーのギャリエン・クルーガーとエンドース契約しているからステージ上に並べているけど、実際に鳴らしているのは裏に隠したマーシャルのアンプだと言っていた。「内緒だよ!」と笑っていたよ。まるでいたずらっ子みたいな表情で、大好きになったよ。

●1986年頃、エイジア加入の話が持ち上がっていますが、どんな事情があったのですか?

ジョン・ウェットンと知り合って、1986年にロンドンの“マーキー・クラブ”で2回チャリティ・ライヴをやったんだ。カール・パーマー、フィル・マンザネラ、ドン・エイリーというラインアップだった(現在では『Asia 2 Live』としてアルバム化)。“ジョン・ウェットン&フレンズ”みたいな感じで、エイジアや俺の曲をプレイしたよ。ジョンはこのラインアップでエイジアとして活動したかったようだけど、俺はそれより自分のキャリアを軌道に乗せたかった。それで断ってしまったんだ。今から思えば、こんな凄い人たちと一緒にやるチャンスを逃すなんて勿体ない!...と思ってしまうけど、当時は俺も情熱に溢れる若者だったんだよ。それからも彼とは友人関係だったけど、同じバンドでやる機会はなかった。ジョンは尊敬するアーティストだし、後悔もあるけど、俺には自分の道を進む必要があったんだ。この頃、デュラン・デュランのオーディションにも誘われたけど、同じ理由で断っている。

●あなたはN.W.O.B.H.M.(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)期にダイアモンド・ヘッド、ウィッチファインダー・ジェネラル、ラスチャイルド、クォーツなどの作品をプロデュースしましたが、当時の音楽シーンをどう見ていましたか?

いろんなエキサイティングなバンドが登場した時期だった。俺は基本的にエンジニアの立場から、いくつかアレンジのアイディアを出す役割だったよ。ラスチャイルドの『復讐のキッズ Stakk Attakk』(1984)はロンドンの“DJMスタジオ”で作ったんだけど、彼らはツンツン頭と鋲付きレザー・ジャケット、ロンドンブーツというステージと同じ姿で地下鉄に乗って毎日、朝10時に通っていたんだ。シンガーのロッキー・シェイズは最高に面白い奴だった。ダイアモンド・ヘッドはシングル「Sweet And Innocent」(1980)をプロデュースしたんだ。シンガーのショーン・ハリスとは友達になって、後にノートリアスを結成することになった。ウィッチファインダー・ジェネラルは2枚のアルバムを作った。決して素晴らしいバンドというわけではなかったけど、ホラー調のイメージが効果的で、カルト的な人気を獲得したんだ。シンガーのジーブ(パークス)は今では銀行の管理職らしいね。コヴェントリーのスタジオで録ったんだけど、レコーディングが終了したときにオーナーがシャンパンのボトルをぶちまけて、機材もデスクもシャンパンでびしょ濡れになった。俺もずぶ濡れになったのを覚えているよ。

●クライマックス・ブルース・バンドとの関わりはどのようなものでしたか?

ピート・ヘイコックが俺がエンジニアをやっているスタジオでデモの作業をしていて、友達になったんだよ。スタッフォードにある彼の家に行って、何曲か一緒に書いた。アルバム『サンプル・アンド・ホールド』(1983)で1曲ベースをプレイしたよ。アルバムには入らなかったけど、イーグルスの「ハートエイク・トゥナイト」を一緒にプレイしたのを覚えている。彼の奥さんがヴォーカルを取ったんだ。みんな酒が入っていたんだと思う(笑)。それでバンドのベーシストにならないかと誘われたけど、ベーシストにはなりたくなかったんで、すぐに脱退した。その後も友人で、クライマックス〜の『Broke Heart Blues』(2015)を一緒に作ったんだ。彼がアルバムの発売を前にして亡くなったのはショックだった。ある日、彼のドイツ人の奥さんから電話があって、心臓発作で倒れたと聞かされたんだ(2013年)。彼と出会って一緒にやれたことは、本当に光栄だよ。クライマックス〜とのもうひとつの繋がりとして、ベーシストのデレク・ホルトとザ・ポリス活動休止直後のスチュワート・コープランドとバンドを結成する話もあったんだ。結局話が流れてしまったけどね。

●ロバート・プラント、グレン・ヒューズ、ロイ・ウッドなど、バーミンガム/ウルヴァーハンプトン出身のアーティストと多く共演していますが、地元のコミュニティのようなものがあるのですか?

そういうわけでもないけど、バーミンガムやウルヴァーハンプトンはそれほど大都会ではないし、同じような場所に集まる傾向があるんだよ。ロバート・プラントの行きつけのパブがショーン・ハリスの実家の近所だったり、顔見知りになってしまうんだ。それでロバートとアルバムを作ることになったんだよ。彼は毎日俺の家に来て、一緒に曲を書いたけど、結局リリースされたのはベスト盤『ロバート・プラント・アンソロジー Sixty Six To Timbuktu』(2003)の「レッド・フォー・デンジャー」だけだった。残念ながら俺のホーム・スタジオに泥棒が入って、マスター・テープを盗まれてしまったんだ。残念ながらそのときのテープは失われてしまった。すごく気に入っていたし、本当に残念だよ。

Glenn Hughes & Robin George『Overcome』ジャケット(マーキー/ベル・アンティーク 現在発売中)
Glenn Hughes & Robin George『Overcome』ジャケット(マーキー/ベル・アンティーク 現在発売中)

●グレン・ヒューズとの共演について教えて下さい。

グレン・ヒューズとも1989年に俺のホーム・スタジオでデモを録ったんだ。この内容も素晴らしくて、本格的に“リッジ・ファーム”スタジオでレコーディングを始めた。でもそちらのセッションではグレンが何かイケナイ物をやっていたのか、デモほど出来が良くなかった。それで結局プロジェクト自体がボツになってしまったんだ。デモの方は『Sweet Revenge』というタイトルで劣悪な音質のブートレグ(海賊盤)CDが出ていた。おそらくレコード会社との契約交渉用に送ったmp3が流出したと思うけど、子供が描いたようなドラゴンのイラストがジャケットで、自分の音楽が侮辱された気分だった。いつかきちんとしたミックスをして世に出したいね(2023年に『オーヴァーカム』として公式リリースされた)。グレンがどこかのインタビューでこのセッションが「惨憺たるものだった」と話しているのを読んだけど、それは“リッジ・ファーム”の方で、デモはすごく良かったんだ。グレンは最高のヴォイスをしているし、親しい友人だ。いつかまた一緒にやってみたい。彼は大勢のマネージャーに囲まれていて、捕まえるのが難しいけどね。俺のホーム・スタジオ“キッチン・シンク・スタジオ”は田舎の真ん中にある一軒家だったんだ。たまに窓を開け放ってリハーサルするから、500ヤード離れた民家からも聞こえたらしい。近所迷惑にならないよう気を付けていたよ(笑)。

【公式ウェブサイト】
http://www.robingeorge.co.uk/

【海外レーベルアーティストサイト】
https://www.cherryred.co.uk/catalogsearch/result/?q=robin+george

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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