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森保ジャパンが平壌で戦う金日成競技場 2017年に公式戦でプレーした日本人選手がいた【内部写真多数】

モンゴルリーガーとして金日成競技場でプレーした石野(一列目左端) 本人提供

「試合前からもちろん、無言のプレッシャーは感じましたよ。見慣れない風景がそこにはありましたから。ホテルからスタジアムへのバス移動では、まずは道路に車が少ない。警察や軍人と思しき人も多い。ただいざピッチに入るとプレッシャーを感じる点は『ある一点』でした」

2017年5月31日、平壌・金日成競技場での公式戦ピッチに立った日本人プレーヤーの言葉だ。

森保ジャパンが3月26日にこのスタジアムのピッチに立つのは2011年の11月15日以来、13年ぶりのことだから、日本人プレーヤーとしては「直近」ともいえる記録だ。

AFCカップ グループリーグ
機関車(北朝鮮) 7-0 エルチムFC※(モンゴル)
※現チーム名はハーン・フンス・エルチムFC

その選手の名は石野秀多(いしのしゅうた)という。1990年生まれで、国士舘高校から東京農大を経て、2013年から当時JFLにいた藤枝MYFCに練習生として帯同した。半年後に正式入団を果たしたものの出場機会は一度も得られず。その後東京都2部リーグのHBO東京に所属しつつ、マルタ、モンテネグロ、アメリカでテストを受けた。その後2016年にモンゴルのエルチムFCのテストに合格。2年目のシーズンで北朝鮮遠征を経験したのだ。

その印象はどういったものだったのか。貴重な現地の写真とともに振り返ろう。

正面の背番号23の後方 18番が石野。本人提供
正面の背番号23の後方 18番が石野。本人提供

2017年にアジアのステージに進出…北朝鮮2チームと同組に

石野は、モンゴルの地でチーム加入後一年目の8月からリーグの月間MVPを獲得するなどMFとして活躍を見せていた。

「ウランバートルにほとんどのクラブが集中していて、1チームだけ遠い地方にあるという状態でした。スタジアムを有していないクラブもあって、試合はウランバートルで集中開催にて行われていました。リーグの上位と下位の実力差があるのも特徴でしたね」

同年、チームはリーグ戦で優勝を果たした。

2年目のシーズンを迎えるころ、クラブのスタッフから「AFCカップのプレーオフに出る」という話を聞いた。AFCカップとは、アジアチャンピオンズリーグの下位リーグ。09年にスタートし、2024-25シーズンからは「AFCチャレンジリーグ」と改称し、3番手のリーグとして生まれ変わる。

「この時はプレーオフで台湾のクラブと対戦する、と話を聞いていたんですよ。しかしその相手が大会を棄権。いきなり本大会に出場することになったうえに、本大会でも棄権チームが出て…結局北朝鮮の2チームと自分たちの3グループで戦うことになりました」

グループリーグの組み分けは…北朝鮮の4.25と機関車、そしてモンゴルのエルチムFCの3チーム、という構造になった。

4.25とは今回の北朝鮮代表の主力も多く所属するであろう名門クラブだ。「4.25」とは、北朝鮮内で言われている朝鮮人民革命軍の創建日に由来する。朝鮮語読みは「サー・イーオー」。

機関車とは北朝鮮の平安北道新義州市にルーツを持つクラブ。「機関車」の名前の通り、エンブレムには「鉄道省」の文字が入る。こちらも北朝鮮4大クラブのひとつに数えられる名門だ。

石野は、北朝鮮に行けることに期待を抱いた。せっかくアジアの国でプレーしているのだ。なかなか経験できないことをやってみたい。

しかし実は、チームが最初の平壌遠征に出向いたのは2017年4月だった。北朝鮮ナンバーワンの強豪チーム4.25とのアウェーゲームが北朝鮮・新義州で行われた。

しかし石野はそこに参加できなかった。ウランバートルの地でクラブスタッフからある話を聞かされたのだった。

「相手の4.25は軍隊系チームだから、外国人(日本人)選手は北朝鮮に入国できない」

よく分からなかった。軍人の顔を見分けられると都合が悪いのか、何なのか。いずれにせよ従うしかなく、次の5月31日の平壌での機関車との対戦機会を待った。

唯一プレッシャーを感じたのが…

試合の4日前、モンゴルの首都ウランバートルを発った。バスや寝台列車を乗り継いでの遠征。中朝国境の中国側の都市・但東に着くと、電車に乗り換えて北朝鮮入りした。日本代表がザッケローニ監督時代に入国した際には「4時間かけての厳しい荷物チェックと審査」が話題になったが、石野の入国時にはその点では大きなストレスはなかった。

「電車で中国の但東から北朝鮮側の駅(新義州)に入り、そこでパスポートを見せるなどの簡単なチェックがありました」

試合前日の5月30日に平壌に着くとホテルにチェックイン。その際、モンゴルのチームスタッフに言われた。

「ホテル内でもあまり移動するな。そして一人では行動しないこと。できる限り誰かといるように」

前日練習では、初めて金日成競技場に足を踏み入れた。

「スタジアム内のロッカールームも清潔だったし、特にスタンドが威圧的、ということはない。『思ったよりも普通のスタジアムだな』と思ったものですよ」

ただ一点、ちょっとプレッシャーを感じるところがあった。メインスタジアムに掲げられた肖像画だ。

「試合になったら気にならないんですよ。でも、スタジアムに入ったときにメインスタンドの上部にあるんで『あ、やっぱりあるんだな』と思う。もうひとつ、何を感じたかというと『相手チームの気持ちが全然違うんだろうな』という感覚です」

平壌駅から地下鉄で8駅目に位置する金日成競技場は日本統治下に1926年に「キリムリ公設運動場」として建設された。1945年には、中国で抗日パルチザン運動を繰り広げていた金日成氏が帰国後に初めて演説した場となる。その後幾度かの改名や改築を経て、1982年から「金日成競技場」の名称となった。北朝鮮の選手とすれば、絶対に負けられない場所なのだ。そこで目にする肖像画は緊張を高めるものでもある。

「ただ街中にもそれは飾られているので、『スタジアムで初めて見てめちゃくちゃ動揺する』というところまではなかったですが」(石野氏)

もうひとつ、このスタジアムで多く語られるのが「ピッチが人工芝」という点だ。2017年5月の時点でこんな印象を抱いた。

「当時は芝生を張り替えたばかりだと聞きました。芝が立っていて、ボールが転がりにくいという印象はありますね。水が撒かれていなかったこともあって。もし芝生が当時のままだったら十分に馴染んで、寝ている状態だと思うのですが」

人工芝の様子がよく分かるカット。一列目左端が石野 本人提供
人工芝の様子がよく分かるカット。一列目左端が石野 本人提供

その試合での石野にとって、じつのところ大変な事情だったのはクラブスタッフからかけられたプレッシャーだった。

"9失点以内に抑えろ"

"さもなくば北朝鮮から出られない"

「グループリーグ3チームのうち2チームが北朝鮮のチームというなかで、どうも国内ナンバーワンの4.25の方を勝ち上がらせたかったようだったんですよ。自分たちと機関車の得失点差がそれを決める状況だった。82分に7点目を獲られた時には本当に焦ったものです…」

0-7の大敗で終わった平壌でのゲーム。ただ、石野にとって平壌遠征で大きなインパクトだったのは試合会場のことよりも「過酷な移動」の方だった。モンゴルから内モンゴル自治区を経て、中国吉林省などをバスで行く。「北朝鮮に入る電車は時間が決まっているけど、バスはいくらでも交通事情で渋滞する。そのスリルの方が深刻でした」。道すがら、バスを降りてカップラーメンで食事を済ませることもあった。33歳になりキャリアはすでに引退し、現在は埼玉県で勤務する石野はこう平壌での記憶を振り返る。

「僕は結局のところ、人生の経験として行ってよかったなって思いますよ。なかなか行くことのできない場所ですから。日本代表は『過酷な移動』と僕が経験した『チーム内からの謎のプレッシャー』がないわけで、そこは非常に大きなプラス材料になるでしょう。いい結果を残してほしいなと期待しています」

26日、平壌ではどんな環境が待っているだろうか。

メインスタンドから当時のチームスタッフが撮影 石野氏提供 
メインスタンドから当時のチームスタッフが撮影 石野氏提供 

スタジアム内ロッカールーム 石野氏提供
スタジアム内ロッカールーム 石野氏提供

ロッカールームからピッチへ向かう通路 石野氏提供
ロッカールームからピッチへ向かう通路 石野氏提供

石野氏提供
石野氏提供

石野氏提供
石野氏提供

吉崎エイジーニョ ニュースコラム&ノンフィクション。専門は「朝鮮半島地域研究」。よって時事問題からK-POP、スポーツまで幅広く書きます。大阪外大(現阪大外国語学部)地域文化学科朝鮮語専攻卒。20代より日韓両国の媒体で「日韓サッカーニュースコラム」を執筆。「どのジャンルよりも正面衝突する日韓関係」を見てきました。サッカー専門のつもりが人生ままならず。ペンネームはそのままでやっています。本名英治。「Yahoo! 個人」月間MVAを2度受賞。北九州市小倉北区出身。仕事ご依頼はXのDMまでお願いいたします。

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