韓流エキスパート古家正亨が語る「K-POPブームの始まりと原点」
韓国ドラマ『冬のソナタ』が日本に上陸してから約15年が経つ。『冬のソナタ』が火を付けた日本の韓流ブームは、2010年にKARAと少女時代の上陸によってその中心がK-POPへ移り、ここ最近はTWICEやBTSによる“第3次韓流ブーム”真っ最中だ。
そんな韓流ブーム、特にK-POPブームを誰よりも近くで見続けてきた人が、古家正亨さんだろう。
ラジオDJ、韓国大衆文化ジャーナリスト、イベントMC、大学の客員教授など、様々な活動を行っている古家さんは、韓流ブームが本格的に巻き起こる前の2001年に北海道のラジオ局FM NORTH WAVEにてK-POP専門番組『BEATS OF KOREA』を立ち上げ、日本でいち早く韓国大衆文化関連の仕事に携わってきた。
現在はラジオ番組5本、テレビ番組3本、コラム連載4本に加えて毎月15件以上の韓流関連イベントの司会を務めるなど、多忙を極める。日本の韓流ファンにもすっかりお馴染みの存在である古家さんは、日本でのK-POPブームについてどう思っているか。
K-POPブームの前と後、そして現在を知るべく、都内でインタビューを行った。
―様々な韓流スター、K-POPアイドルのファンミーティングの司会だけでなく、番組やコラム連載もたくさんやってらっしゃるんですね。もはや韓流スター並みにご多忙じゃないですか(笑)。
「でも、かならず家に帰りますよ(笑)。例え地方でお仕事があっても、全部日帰りにします。まだ子供が小さいですし、僕は北海道、妻は韓国出身なので、東京に親類も多くなく、2人だけで頑張って育てなきゃいけない。
だから業界の関係者の中でも、付き合いの悪さでは日本一だと思います(笑)。これだけ韓流の仕事をしていると“韓流スターとご飯食べに行ったりするんですよね”ってよく訊かれるんですが、ほとんどありません。あっても年に2〜3回くらいです」
―確かに、そう言われてみるとそうですね。古家さんとお疲れ様会をご一緒したことはありませんでしたが(笑)、そうだったのですね。古家さんはもう20年以上このお仕事をされていますが、最初の頃はどんな感じだったのでしょうか。
「僕は2001年から15年間、『BEATS OF KOREA』というラジオ番組を担当していました。このタイトルを付けた理由は“韓国のリアルな音”を伝えたいという想いがあったからです。
というのも、当時日本では韓国の音楽を聴く手段がほとんどなかったんです。2002年のサッカーW杯日韓共催に向けて、韓国の一部の実力派歌手たちが日本に来てはいましたが、メディアが率先して取り上げることはありませんでした。
タワレコやHMVなどに行くと“ワールド”コーナーの片隅に“South Korea”という棚があって、H.O.T.やS.E.S.といったごく限られたアイドルのCDしか入ってきていなかった・・・そんな時代です。
(参考記事:SHINeeキーが大先輩と共演。新旧K-POPアイドルが語る“世代を越えた悩み”とは)
なので僕は当時、身銭切って月1回必ず韓国に行って、その月に発売された新譜CDを全て買ってきていたほどです。『BEATS OF KOREA』を継続させるために、スポンサーになってもらおうと、自分で現代(ヒュンダイ)の車を買ったりしたくらいですから(笑)。それだけ韓国の音楽に魅力を感じて、その良さを伝えたかったんですね」
―今では考えられない状況でしたね。
「当時はまだ韓国という国への関心そのものが低かった時期でした。日本の音楽市場もJポップが圧倒的に強く、“Jポップがアジアでナンバーワン”という意識が、業界人だけでなく、一般の人の中でも潜在的にあったと思うんです。
僕も韓国に対してなんの興味も持たないまま、二十数年間生きてきたわけですが、カナダ留学中に聞いた韓国歌手Toy(ユ・ヒヨル)の音楽をきっかけに、“韓国をもっと知りたい”と感じさせられたほどの衝撃を受けたんです。“こんなすごい音楽が生まれる国ってどんな国だろう”という好奇心が湧いてきたのです。
1998〜1999年に韓国に留学した時は音楽的に衝撃を受ける毎日で、本当に楽しかったですね。そしてその後、2000年に日本でもお馴染みBoAが韓国デビューした時は“これはとんでもない出来事が起きてしまった”と思いましたね」
(参考記事:【SSタイムマシン】 BoAとも確執?東方神起ユンホの“超熱血”アイドル人生と武勇伝とは?)
―そんな古家さんが、ラジオで初めて韓国音楽を流した時の反応が気になります。
「それが、極端に二分されたんですよ。批判の声があった一方で、音楽に敏感なリスナーからは“カッコいい”という反応も来たりして。僕はそういうポジティブな反応が100人のうち1〜2人から来るだけでも、番組をやる価値があると思いました」
―日本でのK-POPブームに火をつけたのは、やはり2010年に上陸したKARAと少女時代でした。当時、ブームを見守りながら何を思いましたか。
「僕にとってこの韓流15年間の中で一番衝撃だった出来事が、KARAと少女時代の上陸でした。それまでは日本にはまだK-POPという概念そのものも定着しておらず、サブカル的な位置づけ、その世界に過ぎませんでした。
それがKARAと少女時代が日本に上陸を果たした2010年頃から雰囲気が180度変わって、あらゆるメディアがK-POPを取り上げ始めた。“ああ、これからはきっとより大衆的なカルチャーとして成長していくだろう”と思う一方で、もう僕の役割は終わったなと思いましたね」
(参考記事:ユニットでもソロでも大活躍。何をやっても輝く少女時代の“可能性”)
―それはどういう意味でしょうか?
「それまでは、知らない人たちに知ってもらう作業をコツコツやってきたわけですが、彼女たちの人気によって、K-POPそのものに対する関心も高まり、一気に大衆的なカルチャーになったわけです。
多くの人々にその魅力が知られるようになって嬉しかった一方で、個人的には正直、困惑しました。K-POPが“広まる”“知られる”きっかけとしては最高だったかもしれません。
でも、自分が伝えたかった魅力とは、少し違っていたものですから複雑な心境でした。同時に人気が独り歩きを始めると、初期に関わっていた人たちがやるべきことは、限られていくことになります。なのでこれを機に、K-POPとの関わり方を変えていかなくては・・・と感じたんです。
最近『82年生まれ、キム・ジヨン』という作品をきっかけに、韓国小説が話題になって、書店では一気に韓国文学に対する関心が高まっていますが、K-POPにおける2010年頃の日本の状況と、個人的にはすごくかぶるんですよね」