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大坂夏の陣で敗れ、逃走するも悲惨な最期を迎えた長宗我部盛親

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城。(写真:アフロ)

 昨年の大河ドラマ「どうする家康」では、大坂夏の陣の模様が描かれていたが、必ずしも詳しく取り上げられたわけではない。豊臣方の武将の長宗我部盛親は大坂夏の陣で敗れ、逃走するも悲惨な最期を迎えた。その経緯を確認することにしよう。

 慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣の際、豊臣方の長宗我部盛親が率いる軍勢は、八尾方面から進軍する徳川家康・秀忠を攻撃する作戦だった。家康・秀忠の部隊に従っていたのは、藤堂高虎である。高虎は盛親の軍勢を確認すると、子の高吉(丹羽長秀から迎えた養子)らに出陣を命令した。

 盛親の軍勢で先鋒を務めたのは、吉田内匠の軍勢だったが、藤堂軍の鉄砲隊に呆気なく敗北した。勝利した藤堂軍は、そのままの勢いで長宗我部軍に攻め込んだが、逆に藤堂軍は主要な武将を次々と討ち取られ、予想外にも不利な態勢に追い込まれたのである。

 藤堂軍が敗れたのには、もちろん理由があった。長宗我部軍は川の堤防に伏兵を配置すると、藤堂軍に奇襲攻撃を仕掛けたという。長宗我部軍は勢いを盛り返すと、そのまま反転攻勢に出たのである。

 長宗我部軍と藤堂軍が激戦を繰り広げる途中、豊臣方の木村重成が若江の戦いで討ち死にしたとの一報がもたらされた。これにより長宗我部軍の士気は一気に下がり、逆に藤堂軍の勢いが盛り返した。

 徳川方の井伊直孝の軍勢が藤堂軍の援軍に駆け付けると、戦況は藤堂軍が有利になった。孤立した長宗我部軍は情勢が不利になったので、軍勢が徐々に後退しはじめたのである。藤堂軍の渡辺了は長宗我部軍を追撃し、多くの敵の将兵を討ち取って、大いに戦功を挙げた。

 戦後、藤堂軍は主要な武将を失ったが、長宗我部軍に壊滅的な大打撃を与え、徳川方が勝利するきっかけを作った。土御門泰重の日記には「大坂で大合戦があったようであるが、豊臣方が敗北したとのことである」と記されている(『土御門泰重卿記』)。

 徳川方が勝利した一報は、早くも京都に伝わったのだ。当初の予想通り、徳川方が有利なままで戦いが進んだのである。結局、長宗我部盛親は、戦場から離脱した。

 戦線から逃亡した盛親は、同年5月11日に山城国八幡(京都府八幡市)で蜂須賀至鎮の従者に捕縛された(『駿府記』)。そして、盛親は二条城に連行され、大勢の見物人の目にさらされたのである。

 5月15日、盛親は六条河原で処刑され、三条河原で晒し首になった。盛親の首は京都市下京区の蓮光寺に埋葬され、のちに供養塔が建てられたのである。

 蓮光寺の僧は盛親の死を憐れみ、板倉勝重に願い出て遺骸を葬ったという。盛親には嫡男の盛恒らの男子がいたが、いずれも捕えられて斬首され、ここに長宗我部家は断絶したのである。

主要参考文献

笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館、2007年)

二木謙一『大坂の陣 証言・史上最大の攻防戦』(中公新書、1983年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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