元阪神タイガース・西村憲投手の再出発は、独立リーグ・石川ミリオンスターズから【前編】
■再びNPBに復帰するための選択
「もう一度、あの大観衆の中で、あのプレッシャーの中で野球がやりたい」―西村憲投手の挑戦がスタートした。独立リーグ、ルートインBCリーグの石川ミリオンスターズ。ここからNPBへの返り咲きを目指して、戦う。
阪神タイガースから戦力外を告げられたのは昨年10月。西村投手は現役続行を希望した。「一緒にやっていたチームメイトがプレーする中、戦力外になって、こんな悔しいことはないから。その悔しい気持ちが現役続行を支えている。プレーしたいという気持ちも大きいし、体がホントに動かなくなるまでやりたい」という自身の気持ちと、「実家の家族が応援してくれているのを感じると、まだまだ頑張らないかんなと思う。ボクを応援するのが家族の生き甲斐でもあるし」というご家族の思いから、「奮い立った」という。
まずは1度目の12球団合同トライアウトを受けた。しかしNPBの球団からはオファーがなかった。そんな中、いの一番に声をかけてくれたのが近鉄バファローズや中日ドラゴンズ、またアメリカでのプレー経験もある佐野慈紀氏だった。現在野球解説者である佐野氏は、石川ミリオンスターズの取締役も務めており、トライアウトにも毎年足を運んでいる。
「解説をしながら、ずっと西村の投げる姿を見てきた。良かった時も見ているし、手術してからも。アレンジを変えれば更に良くなるというのもわかっている」。“再生可能”だと見た佐野氏は「野球をやりたいなら、場所を提供するよ」と西村投手に伝えた。
だが、そこですぐに決定したわけではなかった。西村投手にとっては「まだ第2回もある中で、プロ(NPB)を最優先したい」との思いがあった。しかし2度目のトライアウト受験後、期限が過ぎてもNPBのどの球団からも電話は鳴らなかった。そこで「状況報告だけでもしないと失礼だな」と佐野氏に連絡すると、こんな答えが返ってきた。「返事はいつでもいいから、色々チャレンジしてみろ」。
「正直、野球をするところを探しているボクにとっては、すごくありがたい言葉に聞こえた。一番に声をかけて頂いたのも、『チャレンジしろ』と言って頂いたのも」。海外でのプレーも視野に入れていた西村投手にとって、「やりたいことをできる状況を作ってくれた」ことは、ただただありがたかった。
そこから自ら行動を起こし、それに対する反応もあった。「海外のエージェントと繋がりがある方が連絡をくれて、動画を送ったり、プッシュしたとの言葉ももらったりした」。しかし話がなかなか進展しない。「野球をするところを探すのが、こんなに難しいものか」。辛く、しんどい日々を過ごした。
その中で思案を重ね、自然と考えがまとまった。「NPBに復帰することを考えると、スカウトの目が多い日本でプレーする方がいいのではないか。よりチャンスが多い方に行きたい」。そして何より、辛い時期に声をかけてくれたこと、心配して何度も連絡をくれたことに対する感謝の念が強かった。そこで石川ミリオンスターズ入りを決意した。1月も後半に入った頃だった。
■手術後の「気持ちの悪い」2年間
西村投手に注目が集まったのは2010年、プロ入り2年目の年だ。優勝争いの原動力となり、65試合に登板した。キレのある球でイニング数とほぼ同数の三振を取る投球スタイルだった。小気味いいピッチング、ピンチでも動じないマウンド度胸。またビジュアルの可愛さも相まって、多くの女性ファンを魅了した。
しかし活躍の裏で悩まされたのがヒジ痛だった。「毎年、秋冬にはヒジがおかしいというのが続いていたけど、4年目はもう春から痛かった」。2012年はヒジ痛と戦いながらシーズンを過ごし、そのオフにメスを入れた。
本当の苦しみは手術の後にやってきた。「『元に戻ることはない』という話を聞いた上で、手術に踏み切った。『手術後の100%は手術前の95〜90%』という説明だった。それを頭に置いて、球速が落ちても抑える術を考えてプレーできたらという思いでやっていた。だからといって、元に戻すことを諦めているわけじゃない。手術して更に良くなる選手もいるわけだから。手術を経験した人にも色々聞きながら、自分でもこうやればいいというのをイメージして練習してきた」。当初はそう思って取り組んだ。
しかし「スピードが戻ってこない」などという容赦ない声も耳に入ってくる。そして何よりも厄介だったのが「怖さ」だった。「痛みよりも、最終的には怖さが邪魔するんですよね」。
「痛みが出たら終わりやという、“崖っぷちな感じ”が怖くて…。いつ痛みが出るかわからないから、思いきり腕を振れないというのがあったし、離脱するのが怖かった。ずっとプレーしたかったから」。もし痛みが出て、それを申告するとリハビリ組にUターンとなる。それも恐れた。「だから感覚はずっと良くなかった」。
そんな状態で投げている自分のピッチングに、もちろん納得がいく筈もない。活躍していた頃の動画と見比べても、「物足りなさ」を感じたという。「淡白なピッチングに映った」。けれど「どこを修正したらいいのか、どうトレーニングしたらいいのか、わからなかった」と苦しんだ。家に帰ると毎日、動画を見て「明日はこうしてみよう」とプランを立てて球場に向かう。けれど実行してみるとヒジにハリが出る。「ヒジにくるのはフォームが悪いのか」と考える。「その繰り返しやったから、ホント辛かった」と振り返る西村投手。
「痛みが出たら終わりという怖さ」と「物足りなさ」。これらが混在していた術後は「気持ちの悪い2年間だった」という。淡々とした口調が逆に、苦しみの大きさを物語る。
■全ては野球のために
しかし現在、その「気持ち悪さ」から解放されたという。「ボクの中で怖さが少しずつ消えてきているのもあるかもしれないし、気持ちの面も関係しているのかもしれない。痛くなったら終わりやという後ろ向きな考えから、今、プロ(NPB)を目指して気持ちが前向きに変わってきているからかもしれない」。
そして何より、佐野氏のアドバイスが大きかった。「昔のフォームを見ていてくれたので、今と違うところ、こうしたらというのを言ってくれた。それをやってみたら感じも良くなってきた。感覚は悪くない」と話す。佐野氏に解説してもらうと「ヒジの影響からか、胸の張りが小さくなっていたのと、体を回転させるスピードが落ちていた」とのことだ。ずっと見てきた佐野氏ならではのアドバイスは、西村投手自身が「忘れていた」というものを、思い起こさせてくれたようだ。
それは表情にも表れている。今の西村投手はどこか吹っ切れたような、清々しい表情に変わった。
日々過ごす中で、「何をしていても、食事をしていても、野球に繋がると思って生活しているし、そうでないといけないと思っている」と言い、全てが野球一色のようだ。栄養学も勉強し、食事の自己管理も徹底している。例えば朝からタンパク質の補給を意識し、チーズやピーナツバターを摂るといった具合だ。「体重は落ちました。ベスト体重はまだ探しながらやっています」。より良いピッチングに繋げるべく、模索中だ。
■タイガースへの感謝の気持ち
今、タイガースについてはどんな思いを抱いているのだろうか。
これにはまず「感謝」と答えた。「野球をさせてもらえる環境があるっていうのは、ありがたい6年間やったなと思う。野球するところを探すのがこんなに難しいものだというのを経験したので、改めてそう思う。いい経験をさせてもらったし、幸せやったと思う」と話す。
「術後、もう少し時間をくれれば…」という私個人の意見はバッサリと斬られた。「ホントは1年で切られるところを、もう1年待ってもらえたと捉えている。それはありがたかった」と心から感謝しているのだ。
もしやその思いから、背番号をタイガース時代と同じ「43」にしたのだろうか。すると、あっさり否定された。「来たら決まってました。物語性がなくて申し訳ないけど(笑)」。いや、きっと、イメージが定着しているから、球団がそう決めたに違いない。「ありがたいですけどね。43番が付いてる道具がそのまま使えるし(笑)」。経済的にも助かるわけだ。「何番でもよかった」と、西村投手自身はこだわりがないが、ファンにとってはやはり、「43」を背負った姿がまた見られるのは嬉しいことだろう。
新たなる挑戦がスタートした。西村投手の復活は、“商売道具”にメスを入れた投手たちにとっても希望の光になる。