生涯 野球小僧!沢村賞投手・井川慶(元阪神タイガース)の現在地【後編】
(【前編】からの続き)
■井川慶投手の思い出
阪神タイガースのエースとして、2度のリーグ優勝に貢献。投手の最高峰の栄誉である沢村賞にも輝いた井川慶投手。
「『引退』って言っても言わなくても一緒かな」とその表明はせず、今も野球教室やイベント、テレビ出演などで野球に関わり、その技術を伝えている。井川投手の入団を熱望している独立リーグの球団もあるが、はたしてまたチームの一員としてマウンドに上がるのか、気になるところだ。
そんな井川投手が、今もなお続けている練習の合間に、さまざまな思いを吐露した。これまでのプロ野球人生における数多ある思い出の中で、特に自身に影響があったできごとを振り返った。。
■八木沢壮六コーチの言葉
タイガースでの思い出は数えきれないほどあるが、中でも印象的なできごとがあった。「1軍に定着しはじめたころはすごく楽しかった。よく思い出すのは、2000年の秋季キャンプ。安芸(高知県)ですね」と切り出す。
「安芸の練習って若手だけで、ほんとにつらい。あと何日、あと何日って数えながら過ごしてて。あるとき、たまたま芋けんぴ(高知の銘菓)を食べてたら歯の詰め物が取れたんですよ(笑)。それで、八木沢(壮六=投手コーチ)さんと一緒に歯医者に行くことになって。
普段、二人きりってないけど、そのとき初めて二人きりでいろいろ話した。で、自分が先に治療して、八木沢さんが治療しているのを別室で待っているとき、先生との会話が聞こえてきたんです」。
その会話はこうだった。
歯科医師:『あの子、どうなんですか?』
八木沢コーチ:『すごくいいピッチャーだから来年、絶対にローテーションに入る。ほんと期待しててよ』
歯科医師と八木沢コーチはもちろん、本人に聞かれているとは思わずに話していたのだが、期せずして聞いてしまった井川投手は「え?」とビックリしたという。その年は「成績も出してないし、まだ全然よくなかった」のに、ローテとは…!自身の耳を疑った。
その前年に1軍デビューし、7試合に投げて初勝利も挙げているが、その年は後半に昇格して9試合に登板(先発5試合)し、1勝3敗だった(防御率4.35)。
その年、春先はファームで調子がよかった。
「でも、だんだん崩れてきて、7月くらいにはボロボロだった。なのに、なぜかオールスターブレイク中の練習で1軍に呼ばれたんです、シートバッティングに。
で、なんとか結果出してやろうと思って、全力で投げた覚えがある。そしたら四球も出さず、ほとんどストライクで1軍選手を打ち取れたんで、すごい自信になって…そこから、ずっと1軍」。
2000年当時の1軍メンバーといえば広澤克実、和田豊、大豊泰昭、八木裕ら錚々たる強打者、巧打者が顔を揃えていた。そういった面々を抑えたのだから、強烈なアピールとなったわけだ。
「当時のチームはオールスター明けは優勝狙える感じじゃなくて消化試合。若手を使おうってなって、先発も何試合か(5試合)投げさせてもらえた。でも、それで来年ローテに入れるなんて、自分の中では思いもしなかった」。
だから驚いたのだ。まさか首脳陣が自分のことをそんなふうに期待してくれているなんて…!
そして、その八木沢コーチの言葉どおり井川投手は翌年、開幕から先発ローテに入った。29試合(192回)に投げて9勝(13敗)を挙げ、防御率2.67(リーグ2位)という成績を収めた。初めてオールスターゲームにも出場している。
翌2002年は開幕投手を務め、31試合(209・1/3回)に登板して14勝(9敗)と初の2ケタ勝利を記録した。押しも押されもせぬ虎のエースとなったのだ。
その後もメジャーに行くまで、ローテーションの柱として3年連続を含む4度の200投球回超えとイニングを食い続け、5年連続2ケタ勝利を刻んたが、それはあの歯医者で耳にした会話からスタートしていたのだった。
だから今でも井川投手の中に印象深いシーンとして鮮明に刻まれている。
■中込伸投手の姿勢
もう一つ、忘れられないのが初登板でのできごとだ。
2年目の1999年5月2日、広島東洋カープ戦。先発の中込伸投手が早々にノックアウトされ、出番が回ってきた。
「死球、四球、四球、ヒットで終わってガックリするじゃないですか。まぁ、そりゃそうですよね。ベンチに帰ってきて、何言われんのかなと思ったら、中込さんが『ごめんな』と。『オレが悪かったよ』って言うんです。自分がとんでもないことしたのに先発ピッチャーに謝られるなんて…」。
悔しさと情けなさ、歯がゆさとともにチームへの申し訳なさなど、さまざまな感情がない交ぜになってベンチに戻ったところ、まさか大先輩から詫びられるとは。
「そのとき、先発ピッチャーってそういう責任があるんだなっていうのを感じた。だから自分も先発したら、後ろのピッチャーには絶対に声かけるようにしていた。『申し訳ない』って自分から謝ったりするようにはしていた。責任ですよね、先発の」。
この中込投手の姿勢はずっと、井川投手のベースに刻まれている。
■松井秀喜氏のメディア対応
また、アメリカでのこんなエピソードを口にする。
「アメリカに行ってからだいぶ変わりましたよね、考え方が」と切り出し、ある名前を挙げた。すでにニューヨーク・ヤンキースで活躍していた松井秀喜氏だ。
「松井さんがいらしたんで、日本のメディアもいっぱいいた。メディアとの接し方とか、もちろんアメリカっていうのもあると思うけど、向こうは『仲間』なんですよ。ほんとに仲間なんですよ、みんな。
松井さんは日本代表で行かれているし、マスコミの方も松井さんを頑張ってなんとか応援しようというか、もちろん報道はちゃんとするけど、松井さんもしっかりとメディア対応っていうか、どんな状況でもしっかりと受け答えしていた」。
どんなに状態が悪くても、気分が乗らなくても、常にフラットに接する。その姿にハッとさせられた。
「当時、自分は(メディアに対して)黙って通り過ぎたりもあったけど、松井さんは絶対にそういうことはしなくて、そういうのもあって信頼されているんだなぁというのを感じたし、超一流選手のメディア対応の仕方とかを間近で見られて勉強になった。だから、そこは大きかったですね。すごくいい経験になった」。
超一流選手の振る舞いを見ることが、自身を人として大きく成長させてくれたとしみじみ語る。
■野球小僧は投げる姿を見せ続ける
さて今後だが、「肘や肩は元気なんで、動くうちはイベントとかやっていきたい」と話す一方で、「ほかのこともやってみたい」との願望もあるようだ。
テレビにしろ野球教室にしろ、今も実際に投げる姿を見せることができるのは、貴重である。「いやぁ、今は全然できてない。2割とか3割くらい」と、自粛明けの現在の状態には謙遜するが。(先日のテレビ出演時には「5割」まで上がったようである)
桑田真澄氏は「50歳でもこんな球が投げられるんだというところを見せたい。子どもたちにすごいと思わせたい」と、始球式などで投げるためにトレーニングを欠かさないと言っていたが、井川投手も「それはありますね、やっぱり。OB(のプレー)とかって見るけど、何がどうだろっていうときありますからね」と同調する。歳を重ねても、自分が納得できるクオリティのものは見せたいのだ。
「そうそう!八木沢さんも福間(納)さんもすごかった」と思い出したように目を丸くする。若手だったころの1軍投手コーチの二人だ。
「八木沢さんとキャッチボールしたら、ほぼほぼここ(胸元)しか来なかったから。なんでこんな年なのにこんなにコントロールいいのかなって(笑)」。
若い井川投手を大いに驚かせたという。
さらには福間コーチだ。
「チェンジアップの抜けが自分よりハンパなくよくて、それですごい勉強しましたもん。当時、自分もチェンジアップをウリに頑張ってたんですけど、福間さんのほうがいいなと思って(笑)。『こうやって投げるんだよ』っていわれて『あぁ、なるほど』って勉強しながら」。
指導者にはなる気はまったくないというが、子どもたちの前では“見せられる”自分ではありたいと誓う。
今後、どうするのか明確には決まっていない。しかし投げられる体であるうちはトレーニングを続けるだろうし、驚かせる球を投げ続けるのだろう。
井川慶はまだまだ“引退”はしない。生涯、野球小僧であり続ける。
(撮影はすべて筆者)