摂関政治で最盛期を築き上げた藤原氏とは、いかなる由緒を持つ氏族なのか
今年の大河ドラマ「光る君へ」は、全盛期を迎えた藤原氏が摂関政治を行っていた時代が舞台である。その藤原氏はいかなる由緒を持つ氏族なのか、詳しく考えてみることにしよう。
669年、乙巳の変などで功のあった中臣連鎌足が「藤原」姓を下賜され、同時に大織冠と内大臣の位も授けられた。ここに藤原氏がはじまった。
698年には詔によって、不比等(鎌足の次男)の直系だけが藤原姓を名乗ることを許可された。藤原とは奈良県橿原市高殿町あたりの地名で、鎌足が誕生した地だったといわれている。不比等は父の名誉を独占しようとし、その直系のみに藤原姓を名乗ることを目論んでいたという。
不比等の娘の光明子(光明皇后)は聖武天皇の后となり、初めての人臣皇后となった。不比等には4人の子供がおり、長男の武智麻呂が南家、次男の房前が北家、三男の宇合(馬養)が式家、四男の麻呂が京家を開き、それぞれが藤原四家の始祖となった。しかし、その四家は明暗を分けた。
天平宝字8年(764)に南家の仲麻呂が失脚すると(恵美押勝の乱)、代わりに式家が台頭したが、弘仁元年(810)の薬子の変で家が衰えた。京家も麻呂の没後は子孫が衰退し、北家だけが権勢を振るうようになった。嵯峨天皇は北家の冬嗣を厚く信頼し、初代の蔵人頭に任じた。のちに、冬嗣は左大臣まで昇進したのである。
冬嗣の娘の順子は仁明天皇の后となり、文徳天皇を産んだ。さらに、良房(冬嗣の子)の娘は文徳天皇の后になり、太政大臣、摂政などを務めた。こうして、良房は外戚として大きな権力を握ることになった。基経(良房の養子)も摂政を務め、のちに初の関白に就任した。2人がのちに展開する摂関政治の礎を築いたのである。
10世紀以降、藤原氏北家は摂関政治を行い、天皇の外戚として大いに権勢を振るった。その黄金時代が道長、頼通の代である。藤原氏が台頭したのは天皇との外戚関係だけに止まらず、各地に散在する荘園が経済基盤となっていた点にある。また、藤原氏の子弟は蔭位の制により、初めて出仕する際、一般の官人より高い官職で処遇された。しかも、摂政・関白の座は、藤原氏が完全に独占していた。
ところが、11世紀中頃に後三条天皇が即位すると、自ら親政を行った。次の白河天皇は上皇となって院政を開始し、以後は院政が定着することになった。ここに摂関政治は終焉を迎えた。平安末期の保元の乱、平治の乱で武士の世が到来すると、摂関家内部では激しく対立し、弱体化が進んだのである。
中世になると、藤原氏は近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家に分かれ、五摂家が誕生した。以後、摂政・関白は五摂家の持ち回りで務めることになった。豊臣秀吉・秀次は、あくまで例外である。明治以降、五摂家は最高位の公爵に任じられたのである。
主要参考文献
朧谷寿『藤原氏千年』(講談社現代新書、1997年)
倉本一宏『藤原氏 ―権力中枢の一族』(中公新書、2017年)