【独立リーガーのセカンドキャリア】憧れの阪神へ!覇権奪還への下支えをする覚悟の寺前湧真さん
■新人ブルペン捕手・寺前湧真さん
幼いころ、虎ファンのおじいちゃんの膝の上で一緒に野球中継を見て、懸命に応援していたチーム。その一員になれた。
といっても、選手ではない。ブルペン捕手である。投手が投球練習をするときに受ける役、つまり裏方といわれるポジションだ。
それでも、嬉しくてたまらない。憧れのタテジマに袖を通し、背番号も着けられる。阪神タイガースのブルペン捕手として採用された寺前湧真さんは、胸を高鳴らせて新年を迎えた。
昨年は独立リーグ(日本海リーグ)の石川ミリオンスターズの捕手だった。だが、シーズン序盤の故障もあって満足に試合に出られず、不完全燃焼に終わった。
しかし、練習生になっても決して腐らず献身的にチームに尽くす姿を、タイガースから派遣された岡﨑太一監督はずっと見ていた。そんな指揮官の後押しもあり、虎入りへの道が開けたのだ。
では、寺前さんのこれまでを振り返ろう。
■おじいちゃんと阪神戦を見ていた子ども時代
おじいちゃんの寺前芳一(よしかず)さんの家に行くと、いつもテレビからは野球中継が流れていた。サッカーがしたかった寺前少年だが、「保育園のころからですね。おじいちゃんの膝の上に座らされて野球をずっと見ていたら、ルールを覚えていって(笑)」と、気づくと自身の中に野球が入ってきていた。
小学3年になったとき、近所に住む1つ上のお兄ちゃんからソフトボールの体験会に誘われ、何もわからないまま入部届を書き、そのままソフトボールをすることとなった。
当時から捕手だった。「体を見られて、ですね。ドカベンって(笑)」。同級生と比べて身長も高く、どっしりした体型で、「やりたいポジションもなかったし、それなら(防具を)いっぱい着けているキャッチャーがいいかな、くらいでした」と、すんなり受け入れた。
中学からは念願の野球に、それも高校で甲子園を目指すために硬式野球の藤井寺リトルシニアに入った。ごくたまに練習試合で投手をすることもあったが、やはり捕手だった。
「小学生のときはちょっと嫌やったんです。高学年になると違うところもやりたいってのがあったんですけど、中学生になったらキャッチャーの深みというか、おもしろいなって思いだしたんです」。
ソフトボールではストレートとチェンジアップのみだったのが、硬式野球では変化球が増え、配球を考えるようになったのだ。
「自分の配球で抑えられる、操れる、その感覚を覚えてきたんで、楽しくなってきたんです」。
まさに捕手の醍醐味である。当時のチームに捕手出身のコーチが2人おり、その指導も大きかった。
■「打てる捕手」として鳴らした高校時代
当初は甲子園常連校に行けるはずだったのが諸事情でなくなり、大阪学芸高校に進んだ。藤井寺リトルシニアから2年連続で進学しており、なにより同校の小笹拓監督が捕手出身者で、「キャッチャーとしてうまくなりたいんなら」というのが決め手となった。
この小笹監督との出会いが、後の進路にも影響することとなる。
「スタートからうまいこといきすぎていて、1年夏からベンチに入って試合に出られるところまできていたんですよ。けど、大会前の最後の紅白戦で右足首の靭帯をやってしまって…」。
泣く泣く戦線離脱したが、秋には正捕手の背番号2をもらえるまでになった。しかし2年生の春前、今度は左足首の靭帯を痛めた。試合で帰塁の際、ベースを踏み外してしまったのだ。それでもなんとか春の大会途中には復帰でき、そこからは怪我することはなかった。
「打てる捕手」として鳴らした。それも長打だ。正確に数えてはいないというが、通算25本塁打はあったと記憶している。実家には記念として、そのうちのいくつかのホームランボールが飾られている。
ほかの高校生には負けてはいない自信はあった寺前さんだったが、あるとき心を折られるできごとがあった。
「星稜高校と練習試合をしたんですけど、山瀬(慎之助=読売ジャイアンツ)のあの肩、一流やなと思いました。間近で見たときに、『こいつはプロに行くな』と思って、僕自身は中途半端やと感じたんですよ」。
高校2年の秋だった。そのあたりから自身の中では「野球って別にプロ野球だけじゃないな」という考えが浮かびはじめ、「プロ野球選手」という夢はだんだん薄れるとともに、次第に尊敬する小笹監督の背中を追って、同じ指導者の道を目指したいと思うようになっていった。
■教員免許を取得し、野球でも活躍した大学時代
まずは教員免許を取らねばと考え、希望したのは関東の大学だ。野球で勝負できるという自信があったのだ。だが、小笹監督から優しい性格を指摘され、「関東のバチバチするとこよりは」と勧められたのが金沢星稜大学だった。小笹監督の恩師・北川良氏が監督を務めているという縁があったのだ。
「教職課程が卒業単位には入らなくて、トータル150以上単位を取ったんです。授業も6限まで受けたりして…」と野球との両立は大変だったが、母校での教育実習(指導教員は小笹先生)もこなし、無事、中学と高校の社会科の教員免許を取得した。
「外に野球だけしに行くのはダメ。何か一つ形に残るものを取る」という親との約束も果たせた。
その一方で、大学3年春にベストナイン、同秋にベストナインと敢闘賞を受賞するなど、野球部でも活躍した。だが、4年春に「あと1勝で全国大会」という試合で敗れたことが澱のように心に沈殿していた。
「もし全国に行けていたら、やりきったと辞めるつもりではいたんです。でも、春が終わったときにいろいろ考えて、このまま野球を終わって教員になって後悔せえへんのかなって自分を見つめ直したんです。監督さんに相談したら『社会人はどうや』っていわれたんですけど、2年3年とやるのも違うなって思って…」。
そこで、独立リーグに目を向けた。同校から過去にも阿部大樹選手や室峰憲行投手を輩出しているミリオンスターズなら1年契約であるし、自ら2年と決めて入団することにした。
■練習生になっても決して腐らなかった
ずっと“正捕手道”を歩んできた。毎試合出るのは当たり前で、ベンチを温める自分など想像すらしたことがなかった。しかしミリオンスターズでは第3捕手で、自力で出場機会を奪うしかなかった。
開幕4戦目の5月18日に途中出場し、翌日にはスタメンマスクのチャンスが訪れた。2打席目に左前打を打ち、一塁へ駆けたときだった。「やってしまった…」。腰だった。「椎間板変性症っていって、ヘルニアの一歩手前ですね」と診断された。
実は2週間ほど前から痛みがあり、その日の試合前練習で痛みが強くなっていた。だが、初先発のチャンスを逃したくないからと、隠して出場したのだった。
登録を抹消され練習生となったが、それでも決して腐ったりはしなかった。「当たり前のことをやろう」と決めていた。ただ、練習生は給料も出ないため、アルバイトもしなければならない。
「工場で食品加工をしていました。アンパンマンのバタコさんみたいな白い帽子をかぶって(笑)。午前に練習に行って昼からバイトとか、試合がナイターの日は午前にバイト行くとかしていました」。
試合日の球場ではグッズ販売やチケット係など、スタッフの仕事も熱心にやった。
試合が五回あたりになると、防具を着けてブルペンに行く。中継ぎ投手の球を受けるためだ。
「抑えたら、『よし!僕のおかげや』っていうメンタルでやっていました。自分の中では『ここでピッチャーを作り上げよう!』って思いながら。ピッチャーへの声かけも自分なりに楽しみながら研究して、投手のタイプによって変えていました」。
ほかの2人の捕手より球を受けてきた自負があった。投手を仕上げて送り出すことに、やりがいを感じていた。
結局、捕手として試合に出場したのは6試合で、先発マスクは2度だけだった。ほぼ裏方で過ごしたが、投手が抑えてチームが勝つことが、また、優勝に向かって高ぶる気持ちを共有できていることが、嬉しかった。それが腐らない要因だったと振り返る。
■秋季キャンプで虎にとけ込んだ
そんな献身的な姿を岡﨑監督は高く評価し、それがブルペン捕手への道につながった。契約は今年からだが、昨年の秋季キャンプ終盤には“試運転”で参加した。
「それこそ、おじいちゃんの膝の上で見ていたときの選手が藤川(球児=監督)さんであったり、安藤(優也=投手チーフコーチ)さんであったり、久保田(智之=ファーム投手チーフコーチ)さんであったり…もう、ど真ん中なんで。ファンっていうのは出せないのはわかっていたんですけど、つい口角が緩んでいました(笑)」。
そもそもが「真顔ができない」という癒し系の笑顔の持ち主だ。その福々しい顔はすぐにチームにとけ込み、さっそく“いじられキャラ”も発揮していた。
2001年生まれの選手はチーム内にも多く、中でも井上広大選手擁する東大阪リトルシニアは、引退試合を戦った相手でもある。
「僕は覚えていましたけど、広大は…(笑)。まぁ、僕は無名やったんでね。広大は当時からデカかったです。履正社から阪神に入ったときはちょっとうらやましかったですね」。
ほかの同い年の選手たちとも話をし、すでにコミュニケーションもバッチリだ。
■おじいちゃんは正式契約を待って旅立った
秋季キャンプから戻ると、芳一さんの具合がよくないと知らされた。11月下旬には「危ないって言われて」と金沢から帰省し、見舞った。そして12月3日、タイガースと正式に契約を結び、その足で病院に駆けつけて、芳一さんにあらためて報告した。
「『本当に阪神タイガースで働くことになったわ』って言った、その十何時間後に亡くなったんです。危ないって言われてからも、10日くらい頑張っていた。きっと、僕の報告を聞くまで待っていてくれたんだと思います。もうしゃべれない状態で息だけやったのに、僕が報告したら『うぅ、うぅ』って言って、ちゃんと聞こえて答えてくれたんかなという感じでした」。
最高のおじいちゃん孝行だ。大のタイガースファンだった芳一さんは、さぞかし喜んでいることだろう。116番の背番号が入ったタテジマ姿を見たら、空の上で目尻を下げるに違いない。
■ブルペン捕手として邁進する決意
昨シーズン終了直後は、試合出場に恵まれなった悔しさを晴らすため、今季の現役続行を希望していた。しかし、またとないオファーが舞い込み、退団を決意した。
はたして、プレーヤーとしての気持ちの折り合いはついているのだろうか。
「心残りはありません。2年間と決めていた期限の中で、最後の1年をやりきろうと思っていただけです」。
そうキッパリと言いきり、二つ返事で引き受けたと強調した。
また、尊敬する師を追って教員になり、指導者の道を歩むという目標もあったが、そこからの転換についても「迷いはなかった」という。今後またそちらの道を目指すことはできるが、教員になった後にブルペン捕手はほぼないだろうと思われるからだ。
ならば今、捕手として魅力的なこのチャンスを逃す手はない。なんといってもトップリーグの、一流選手たちの球を受けることができるのだから。捕手冥利に尽きる。
今はNPBという未知の世界で、ブルペン捕手として邁進することを誓っている。
■「縁の下の力持ち」として奮闘する覚悟
職業としてのブルペン捕手は初挑戦だが、「やはりピッチャーの信頼がもっとも大事なポジションやと思っています。そこは選手でも裏方でも関係なく、キャッチャーとして共通点」と話す寺前さん。彼には大きな武器があるという。
「僕、言語化するのが得意なんです。その強みを生かして、ピッチャーには正直に伝えるのが一番いいのかなと思っています。正直に言う勇気ですね」。
もちろんそこは投手の性格などを把握して、その投手に合った言い方を工夫するつもりだ。
また、岡﨑監督からの言葉も響いている。
「ご自身は2軍が多かったので、そこで戦力外になる選手を何人も見てきたと。(ファームは)人生を左右することが多い場所だったとおっしゃっていました」。
それを聞いて、自分も投手の人生を左右する立ち位置にいると気づかされた。だから、「(投手の)人生を背負っているぐらいの覚悟をもってやらないといけない仕事だと考えています」と生半可な気持ちではいけないと、自らを引き締めている。
スポットライトを浴びることのない陰で支える立場だが、寺前さんならきっと、常にニコニコの福顔で投手陣を盛り立てていくことだろう。
新人ブルペン捕手は今日1月8日、始動する。
【寺前湧真(てらまえ ゆうま)*プロフィール】
2001年8月22日(23歳)
174cm・98kg/右投右打
大阪学芸高校―金沢星稜大学
大阪府出身/捕手/背番号22
好きな食べもの:むきエビ
特技:たこ焼きを早く上手くひっくり返せる(手先が器用)
キャッチャーミット:道具を大切にする。独立時代のミットは、高校のときに大学用にと買って5年間使い続けたもの。破れた箇所はズボンの紐で繋ぎ合わせるなど、補修をしながら使ってきた。
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