【独立リーガーのセカンドキャリア】NPBでブルペン捕手としてやりがいを感じる植幸輔さん(オリックス)
■ずっと見てくれていたオリックス・バファローズのスカウト
キャッチャー道具を着け、ミットを鳴らしてボールを受ける。その姿は、実に生き生きとしている。
目指していたNPBの世界で、なりたかった“選手”ではないが、選手と同じく背番号のついたユニフォームを身にまとって白球を受けている。
オリックス・バファローズのブルペン捕手、植幸輔さんは昨年まで3年間、独立リーグの石川ミリオンスターズでドラフト会議での指名を勝ち取ろうと、懸命にアピールを続けてきた。
だが昨年のシーズン終了後、自ら決断した。野球選手を引退することを。
「3年間って決めていたわけじゃないけど、でも、長くやるつもりもなかった。3年やって、去年の最後の試合が終わったときにNPBへの夢は諦めたというか、区切りをつけました」。
それでも、大好きな野球には携わっていたかった。野球に関わる仕事をと考えていたところ、ミリオンスターズの端保聡社長を通じてバファローズからブルペン捕手の話が舞い込んだ。選手時代に見てくれていた担当スカウトからの推薦だった。
「ウチも指名候補選手としてリストアップして、ずっと見てきましたからね。指名には至りませんでしたが…。まだ続けると思っていたら引退すると聞いて、それならちょうどブルペン捕手の空きがあったので、声をかけさせてもらいました。こういうのもタイミングですから。大阪出身だし、関西弁にも戸惑いなくなじめるだろうしね(笑)。なにより真面目な人柄がいいと思いました」。
担当スカウトの評価に感謝し、二つ返事でテストを受け、めでたくブルペン捕手として採用された。現在はファームを担当している。
■元謙太とは高校時代に対戦
「野球に携われることが嬉しかったですね。大阪出身なので、大阪の球団というのもより嬉しく思いました。親も、野球を辞めてもこうやってNPBの球界で野球に携われるっていうことを、すごく喜んでくれました」。
春季キャンプからチームに合流したが、最初は不安だった。「人見知り」を自認しており、未知の場所ですぐに馴染めるか、戸惑いがあった。しかし、明るくフレンドリーなチームカラーゆえ、「1カ月間、全員が一緒に泊ってやるわけだし、みんなが話しかけてくれて、すぐに仲よくできるようになりました。オリックスしか知らないですけど、すごく雰囲気がいいです」と、みるみるチームにとけこんだ。
山下舜平大投手や川瀬堅斗投手、来田涼斗選手、元謙太選手ら同い年の選手もいて、自ずと親しくなった。中でも元選手とは高校時代に対戦経験がある。
「僕らの代までは中京大中京(※2020年からは中京高校に改称)とやるのが続いていて、岐阜遠征で戦いました」。
お互いに覚えていたが、「元はそのときからすごい選手でした。高校を卒業してすぐプロに入りましたしね」と、なつかしむ。
■山下舜平大のストレートに圧倒される
ブルペンでまず驚いたのは、ピッチャーの投げる球だ。これまでずっとキャッチャーとして幾多の球を受けてきたが、やはり最高峰のカテゴリーのピッチャーの球は全然違った。
ストレートの威力は想像以上で、中でも「ストレートだけだったら、舜平大じゃないですか」と、次代のエースと期待される同い年右腕の球に圧倒されたという。
「初めて捕ったときは本当にビックリというか、差されるというか…強いなと思いました」。
昨年の9勝(3敗)、防御率1.61の好成績が、なるほどとうなずけるボールだった。
キャンプの序盤を思い返し、人差し指への衝撃がすごかったと目を丸くする。
「人差し指が腫れて痛かったです。こんなふうになったのは、(これまでの捕手人生で)初めてですね。それくらいボールの勢いがすごい。今でも腫れてはいるんですけど、人差し指が慣れたのか、もう大丈夫です(笑)」。
何十球、何百球と捕っているうちに、ピッチャーそれぞれの持ち球の軌道も読めるようになり、それも衝撃を緩和させた。
また、ブルペン捕手の仕事はピッチャーの球を受けるだけではない。「球数とかもしっかり管理っていうか、試合中は書いていますね。ほかにも、遠征のときは選手たちの荷物や道具を運んだり、いろいろやることはあります」。最初は覚えるだけでも大変だったが、今では流れもつかみ、きびきびと動いている。
選手のほうから受けたボールの感想など、意見を求められることもある。年上の選手も多いが、「そのときは自分が思ったことをしっかり伝えるようにしています」と常に準備はしている。
「選手のことを細かくというか、しっかり見ていないといけない。『どうやった?』って訊かれて思ったことは言えるんですけど、それが正解かどうかはわからないんで、そういうところは難しいですね」。
できる限り選手のサポートをしたいと、キャッチングをしながらも五感を研ぎ澄ませて取り組む。
■アマチュア時代の球歴
植少年が野球を始めたのは小学1年生と、かなり早い。4歳上のお兄ちゃんが野球をしているのを見て、自分も同じようにやりたいと言い出したのだ。ピッチャーやショートを任されるようになったのは、おそらくチームの中でも頭抜けた能力があったのだろう。身長も高かった。
キャッチャーになったのは小学5年生からだ。少年時代には比較的敬遠されがちなポジションだが、植少年は「嫌だったんですけど、なんか楽しかった」と振り返る。
「キャッチャーは暑いし、ボールが当たるし、っていうイメージで嫌だったんです。でも練習はきつかったんですけど、試合になったら楽しくて。勝ったらやっぱり嬉しいし」。
防具を着け、ひとり反対方向を向いて座り、チームを見渡す存在のキャッチャー。幼いながらも司令塔としてゲームを支配する快感を、無意識ながら味わっていたのだろう。以来、キャッチャー一筋の野球人生だ。
中学から硬式をやり、高校はお父さんの母校でもある高野山高校に進学した(※今年からお父さんは監督を務めている)。関東の高校にも興味があったが、高野山高校の練習に参加してみて、室内練習場など充実した施設に惹かれた。
ただ、全寮制にはやや不安があった。「初めて親元を離れるんで淋しいっていうか、ホームシックっていうんですかね、そういうのになりそうやなって思ったんです(笑)」と、ためらいがあった。お兄ちゃんのほかお姉ちゃんもいる末っ子クンだ。まだまだ甘えん坊な年ごろだから無理もない。
しかし、存分に野球ができるであろう環境に優るものはなく、入学を決めた。入ってみると同級生とも気が合い、淋しさを感じることもなく楽しく野球に打ち込むことができた。
■独立リーグでの3年間
卒業後はNPBを目指し、ミリオンスターズに入団した。1年目はベテランキャッチャーがおり、植選手はファーストも兼任しながらゲームに出場した。
2年目に正捕手の座を掴んだ。打撃も好調で、後藤光尊監督からの評価も高く、ときに4番を任されることもあった。若いながらも年上の投手陣をリードし、セカンドスローをコンパクトにするなど工夫して、キャッチャーとしてのスキルもどんどんアップさせていった。
NPB球団からも注目を集め、ドラフト会議前には3球団から調査書が届いた。
しかし、指名はなかった。
植選手はなぜダメだったのかを考えた。自分には何が足りないのか…。導き出した答えは「長打」だった。
「打率はある程度残ったんですけど、長打がないな、と。それで体重を増やしました。夏場に落ちやすかったんでトレーニングを継続したりと、いろいろやったんですけど…」。
勝負の3年目。だが、意気揚々と取り組む植選手の前に、立ち塞がる強敵がいた。富山GRNサンダーバーズの鉄壁投手陣だ。
この年、リーグの再編成があり、ミリオンスターズはサンダーバーズとともに日本海リーグを結成した。たった2チームのミニマムリーグで、対戦相手は常に同じで40試合を戦う。
サンダーバーズには元東京ヤクルトスワローズの山川晃司投手をはじめ、大谷輝龍投手(千葉ロッテマリーンズ・ドラフト2位)、松原快投手(阪神タイガース・育成ドラフト1位)、日渡柊太投手(今年のドラフト候補)と、150キロ超のストレートとキレのある変化球を操る4人の投手陣がいた。
「速いまっすぐを打ち返せなかった。とにかく速い球を打とうと、いろいろ試したりしたんですけど…」。
チームメイトにもアドバイスをもらい、バットが下から出る悪癖を修正しようと必死に取り組んだ。だが、なかなか結果が出ず、シーズンを通して打撃を上向かせることができなかった。
また後輩捕手が入団してきたこともあり、前年のように毎試合マスクをかぶることができなかった。
「このまま併用だとNPBには行かれへんな、ずっとマスクをかぶりきるくらいじゃないとダメやなと思いながらやってました。それには結果を出さないとっていう焦りもありましたね」。
それでもシーズン中は決して諦めることはなく、最後までNPBを目指して精進した。やれるだけのことは精いっぱいやった。「悔いはない」と、植さんはキッパリと言いきる。
その顔は今、晴れ晴れとしている。
■やりがいがあって、毎日が楽しい
現在、大阪府内の実家から通っているという植さん。朝は7時半には舞洲に到着し、仕事を始める。終業後は「こっち(舞洲)でやってもいいんですけど、帰り道が渋滞するんで…」と渋滞を避けるため早めに帰路につき、地元でトレーニングをする。選手でなくとも、選手をしっかりとサポートするために今もトレーニングは欠かせないのだ。
そして今、選手時代とはまた違うキャッチングの奥深さを痛感している。
「キャッチングは難しいですね。変化球もピッチャーそれぞれ違うんで。人によって捕り方だったりも…捕り方というか、止めてほしかったりとか、要望はいろいろあるんで」。
ひとりひとりのボールを把握し、それぞれに合わせたキャッチングを心がける。大変だが、それがまた、やりがいなのだと話す。
「必ず1日に1回はキャッチャー道具を全部つけて、ピッチャーの球を捕る。試合で登板する前のピッチャーも受けさせてもらっている。本当にやりがいがありますね。今こうして、選手じゃなくても野球をやらせてもらっているだけで、楽しいです」。
今の目標はと尋ねると、「とくに…そこまではまだ考えてないというか、考えられていないです」と初めての世界で、とにかく目の前のことに脇目も振らず取り組んでいる最中だ。目標を見つけるとすれば、もう少し落ち着いてからだろう。
NPBでのプレーを目指して独立リーグで奮闘したが、その夢はかなわなかった。しかし選手を引退したあとにこういう道が用意されたのは、野球の神様がこれまでの真摯な姿勢を見ていたからではないだろうか。やりたいと希望しても、誰でもができるわけではないのだから。
新たに開けた道に、これからも植幸輔さんは全力投球する。
(撮影はすべて筆者)