Yahoo!ニュース

【大河ドラマ鎌倉殿の13人】和田合戦で奮戦した北条泰時が皆の前で誓ったこと

濱田浩一郎歴史家・作家

建暦3年(1213)5月2日、和田義盛、挙兵。北条義時は、囲碁をしていましたが「義盛挙兵」を報を聞いても、驚くことなく、行動していきます。

義盛方は将軍御所や義時邸を襲撃してきますが、幕府方はそれに対抗。3代将軍・源実朝は、難を避けるため、法華堂(源頼朝の墓所)に避難します。義時や大江広元もそれに同行していました。

義盛の軍勢は強力でした。が『吾妻鏡』には、北条泰時(義時の嫡男)は、その強力な和田軍を全く恐れなかったと記されています。命を失くすことを恐れずに、部下を率いて、和田軍と戦ったので、明け方になると和田軍は苦戦し、由比ヶ浜に撤退したと同書にはあります。

この記述が『吾妻鏡』に散見されるという「北条氏(泰時)美化」の影響を受けたものなのか否かの是非は問いませんが、戦のイメージが余りない泰時の「武勇譚」を意外に感じる人もいるかもしれません。

和田軍は強力でしたが、幕府軍も奮戦し、加勢もあったことにより、形勢は逆転。義盛も討ち死にしてしまいます。

泰時は、和田合戦の前日、酒宴に参加。当日は二日酔いの状態でした。合戦終了後にも、武者たちが泰時の邸にやってきて酒宴となるのですが、泰時はその時、あることを宣言します。「大酒を飲むことを今後は控える」ーつまり、大酒を控えるとの宣言をしたのです。

飲み過ぎてしまい、いざ戦という際に、二日酔いで呆然としてしまったことが理由とのこと。この『吾妻鏡』に掲載された逸話にも、泰時の真面目さが現れていると言えましょう。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

濱田浩一郎の最近の記事