米国で夢を追う2人の日本人アスリートが、ENEOSの絆でフェンウェイパークで初対面。
2人の日本人プロアスリートが、フェンウェイパークで初対面
米国の地で活躍を続ける2人の日本人プロアスリートが、8日(日本時間7日)にレッドソックスの本拠地フェンウェイパークで初対面した。レ軍の救援投手として上原浩治投手と共に『勝利の方程式』を担う田沢純一投手(28)と、米国のカーレース「NASCAR」(全米自動車競争協会)で唯一の日本人レーサーとして活躍する尾形明紀ドライバー(40)だ。
2人のつながりは神奈川県出身者というだけではない。田沢がメジャー挑戦を前に所属していたのが、社会人野球の当時の「新日本石油ENEOS」(現在JX−ENEOS)。尾形の所属するトヨタカムリチームのメインスポンサーが「ENEOS」という縁がある。11日に隣のニューハンプシャー州で行われるレースに参戦するため、ボストン入りした尾形が「ENEOS」関係者を通じて初対面した。
「田沢選手の素晴らしい活躍を聞いて、お会いするのを楽しみにしていました。野球場に来るのは初めて。雰囲気を感じますね」と尾形。田沢も「実はカーレースは余り詳しくないですが、これを機に観てみたいと思いました。ENEOSのチームが頑張っているのは嬉しいです」。田沢が社会人時代に勤務していた根岸製油所に、今年5月一時帰国した尾形が見学に訪れたという偶然もあったようだ。
米国でしか叶えられない夢、メジャーとNASCAR
田沢は社会人野球から日本プロ野球界からのドラフト指名を断って、直接メジャーを目指した異例の経歴を持つ。14歳から2輪モトクロスバイクを始めた、尾形も20歳の頃から、当時はまだ日本人には余り知られていなかったNASCARにのめり込んでいく。世界でも稀に見る超高速レースに魅了された尾形は23歳でNASCAR参戦を開始。29歳の時に家族を日本に残して単身、渡米。拠点をノースカロライナ州に移して活動している。信じた夢を求めて海を渡り、様々な困難を乗り越え、その道の第一線を走り続けている共通点がある。
時速300キロの戦い、NASCAR。レース仕様の車両のエンジンは一般者の約4倍に当たる800馬力、排気量は5700CC。車にミラーはなく、対抗車の距離や位置などのレース状況はチームからドライバーのヘッドホンに送られる。指示を聞き間違えば命取りにかねない重要なコミュニケーションだ。渡米当初は英語が完璧ではなかった尾形だが、「レース用語だけは大丈夫だった」。通訳もいない傘下のマイナー2Aに所属した田沢が右往左往しながらも「野球用語だけは解る」と言っていたことを思い出した。
NASCARへの支援で米国進出を進めるENEOSブランド
別の分野で活躍する2人のアスリートが談笑する姿を微笑ましく見守っていたのが、角南元司米国JX日鉱日石エネルギー社長だ。ENEOSが尾形の所属するトヨタカムリチームのメインスポンサーとなって3年目。将来のグロバール市場を見据え、米国でのENEOSブランドの知名度向上を目指す同社は、NASCARでは現在2レースのプレミアムスポンサーにもなっている。レースを転戦する尾形の挑戦を現在形で支援しているのが、ENEOSなら、田沢にとっては、メジャーへの道を開いてくれたのが、ENEOSだった。田沢の未知なる可能性を信じた「ENEOS」が一般企業への就職活動をしていた田沢に野球を続けるチャンスを与えた。頭角を現した右腕は入社3年目でプロに行く道もあったが、悲願の日本一を果たすまでは、と残留を選択。翌08年に都市対抗野球大会を制覇している。メジャー移籍は世間の批判や論議を呼んだが、一貫して田沢をサポート。そんな経緯があるからこそ、田沢はオフに一時帰国した際に必ず古巣を訪問。原点を支えてくれた人々との交流を大事にしている。去年のワールドシリーズに駆けつけた角南社長が客席で掲げていた「ENEOS」の旗をマウンドの上から確認出来たという。
「(高校卒業後)ENEOSに拾って貰えたので野球を続けることが出来た。そうじゃなければ、野球を諦めて普通に就職していたと思う。その結果、メジャーという視野も広がった。メジャーに行きたいと言った時も後押ししてくれた。あの会社じゃなければ、全く違ったことになっていたかもしれない」と田沢が言えば、尾形は「カーレースは実際、お金の掛かるスポーツ。支援してくれるスポンサーなしには、追えない夢です」という。支援する側の企業と、支援される側のアスリートの間には、単なるスポンサーシップを越えた熱い思いがある。ENEOSでつながった日本人アスリートが、益々米国スポーツ界を賑わせて欲しいものだ。