天下分け目の関ヶ原合戦。戦う前から決まっていた徳川家康の勝利。その謎を解く
大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦で東軍が勝利を収め、西軍が敗北を喫した。当日の戦いは激戦だったが、実は最初から東軍つまり徳川家康の勝利はほぼ確実だった。その理由について考えてみよう。
慶長5年(1600)7月17日、三奉行(長束正家、前田玄以、増田長盛)が「内府ちかひの条々」を諸大名に発し、石田三成と毛利輝元が西軍の中心となって、東軍の徳川家康に対し挙兵した。西軍の敗因を準備不足と見る向きもあるが、実際はそうではなかったのではないだろうか。
西軍の総大将だった毛利輝元は120万石、島津氏は73万石、宇喜多氏は57万石、小早川秀秋は37万石、長宗我部盛親は22万石、小西行長は20万石の大名だった(関ヶ原合戦に出陣した大名)。ほかは数万石から十数万石の大名だったが、西軍にはかなりの大身大名が与していた。
一方の徳川家康は256万石の大大名だったが、ほかは福島正則の24万石が目立つくらいで、残りは数万石から十数万石の大名が従うにすぎなかった(関ヶ原合戦に出陣した大名)。
つまり、合戦前の陣容を分析すると、西軍が有利だったといえるかもしれない。当時、100石につき3人の軍勢を引き連れるのが基準だったので、10万石の大名は3,000人、100万石の大名は30,000人の軍勢を引き連れていた。
とはいえ、ことは西軍の思い通りに運ばなかった。家康が調略戦を熱心に行ったからである。調略戦とは、敵を自陣に寝返りさせることである。その際には、恩賞や加増などの条件を提示した。家康は伊達政宗に「100万石のお墨付き」を与えたことで有名であるが、これは結局、白紙撤回された。
調略戦を担当したのは、黒田長政、浅野長政、本多忠勝、井伊直政といった面々である。彼らの調略によって、輝元と秀秋は合戦の前日に東軍に寝返った。合戦当日、毛利の軍勢は一向に動くことなく、小早川の軍勢は東軍の一員として、西軍の大谷吉継の陣に攻め込んだ。これが東軍の勝利の要因ともいわれている。
ほかにも西軍には大誤算があった。宇喜多氏の場合は合戦の前年に家中騒動があり、多くの重臣が家中を去っていた。その結果、思ったような軍事編制が叶わず、不足した将兵は牢人で補った。そうした事情もあり、宇喜多の軍勢はまとまりがなかったといわれている。
島津氏は出陣した義弘と薩摩に留まった義久の仲が悪く、義久は関ヶ原に基準通りの軍勢を送らなかった。結果、わずかな軍勢しかいなかった島津氏は、合戦でほとんど役に立たなかったのである。
当日の合戦はオマケとまではいわないが、勝敗は戦う前には決まっていたといっても過言ではない。家康による調略戦が功を奏したのであり、勝利を確信していた三成にとっては大誤算だったのである。
主要参考文献
渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)