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異国で死んだハットトリックを取り巻くホースマン達の、色々な形のエピソード

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
2005年、香港マイル(G1)を勝った際のハットトリック

香港マイル制覇時のエピソード

 ハットトリックが死んだ。同馬は2005年にマイルチャンピオンシップ(G1)を優勝。直後に香港に遠征すると、香港マイル(G1)も勝利してみせた。国内外でG1を2勝。立派な成績ではあるが、当時、管理していた角居勝彦は重たそうに口を開いて、言う。

 「500キロ前後の雄大な馬格があったのに、切れ味は鋭い馬。気性的に難しい面もあったので、当時、開業して何年も経っていない角居厩舎がしっかりと調教を出来ていたとは言い切れません。正直、手に余した感じはあり、今ならもっと勝たせてあげられたと思います」

現役時のハットトリックと角居(右端)
現役時のハットトリックと角居(右端)

 気性面での難しさに関して一つのエピソードを語ってくれたのは池添学だ。池添謙一の弟で、現在は調教師となっている彼がトレセン入りを待機させられていた時、ハットトリックが香港に遠征。これに帯同した当時の話を次のように語った。

 「栗東で検疫厩舎に入った時、跨らせてもらいました。初めて乗った時にいきなりバンバン立ち上がって驚きました。気性的には難しいタイプだと思ったけど、ただ体は柔らかくて、良い馬だと感じました」

香港マイルでのハットトリックと池添学(左端)
香港マイルでのハットトリックと池添学(左端)

 また、香港マイル当日、レース直前にはこんなアクシデントがあった。レースに出走する各馬が装鞍を終え、パドックを回り出した時、重量を調整する鉛が落ちているのを、係員が発見したのだ。このままスタートしてしまえば、その鉛を落とした馬は斤量不足で失格になってしまう。当然、再度、計量をし直さなければいけなくなったわけだが、問題はどの馬の騎手が落としたのかが判明していなかった事。そこで主催者は全馬の再計量を命じた。こうして、どの馬も着けた鞍を1度、外し、斤量を調整した上で再度、装鞍。これによりイレ込む馬も出て来たが、そんな中、1頭だけ、その作業を免れた陣営がいた。それがハットトリックだったのだ。皆が再計量する間、脱鞍する事なく、曳き運動をする同馬の横で、その様子を見つめながら、騎乗予定のオリビエ・ペリエは笑いながら次のように言った。

 「僕は体重がギリギリだから、そもそも重量を調整する鉛を使っていないんだ。使っていないモノを落とすわけがない。だから計り直す必要はないんだよ」

 こんな幸運も、もしかしたら直後の勝利に関係していたかもしれない。

各馬、装鞍をし直す中、ハットトリックだけは曳き運動で済ます事が出来た。手前はペリエ騎手
各馬、装鞍をし直す中、ハットトリックだけは曳き運動で済ます事が出来た。手前はペリエ騎手

 もっとも、運だけで勝利を掴めるほど海外遠征は容易くはない。先出の池添は、現地での指揮官の態度に感服したと続ける。

 「当時の現地の厩舎地区には馬を歩かせる運動場がありませんでした。そこでウォーキングマシーンを使ったのですが、機械任せにはせず、僕が跨った上で、角居先生が曳く形で歩かせました」

 角居に確認すると、伯楽は次のように答えた。

 「ウォーキングマシーンは他の遠征馬達と共用で使用するモノでした。万が一、アクシデントがあると困るので、一人に乗ってもらい、最初の何周かは私が引っ張りました」

 こういった深謀遠慮をめぐらす姿勢が栄冠につながったのは言うまでもないだろう。

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種牡馬としてのハットトリック

 この年のJRA賞最優秀短距離馬に選定されたハットトリックは07年に引退すると、翌08年には種牡馬としてアメリカへ渡る。更にシャトル種牡馬としてオーストラリアや南米でも種付けをし、17年からベースにしていたブラジルで、今回、急逝してしまった。19歳で星となってしまった同馬だが、産駒にはフランスでデビューから5連勝し、モルニ賞(G1)やジャンリュックラガーディア賞(G1)を制したダビルシムなどがいる。

 そして、池添の厩舎にもエアファンディタという子供がいる。池添は言う。

 「最後の切れ味はお父さんと似ています。現在は1勝馬ですが、まだまだ出世の見込める馬だと考えています」

11年、ジャンリュックラガーディア賞(仏G1)を制した際のハットトリック産駒ダビルシム
11年、ジャンリュックラガーディア賞(仏G1)を制した際のハットトリック産駒ダビルシム

同じ時を過ごしたもう1人の男

 さて、最後にもう一つ、現役時代の裏話を記そう。ここまでも記した通り、角居の下で大成したハットトリックだが、実は他の厩舎からデビューを果たしている。当時、美浦で開業していた清水美波の下、04年にデビューすると、いきなり2連勝。3戦目の重賞で敗れた後、角居厩舎に転厩したのだ。

 ハットトリックがG1を連勝した直後、清水厩舎時代に担当していた室井潔と一杯やった。当時、そんな話を雑誌に記したところ、角居から連絡が入り「彼の連絡先を教えて欲しい」と言われた。その後、室井の元に、角居から“香港マイル優勝記念”の品が届いたという。当時、両者に話を伺った。まずは角居の弁から。

 「転厩して来た時点で大切に扱われて来たのが分かりました。たまたま私のところに来た後にG1を勝ったけど、前任者がそうやって面倒を見てくれていたから、勝てたので、そういう意味で彼にも喜びを分かち合って欲しいと思い、記念品を贈らせていただきました」

 一方、当時はまだトレセン入りして1年にも満たなかったと言う室井は次のように語っていた。

 「そのまま自分が担当していて、同じようにG1を勝てたかは分かりません。角居先生だからこそ、だと思うのに、こんな気遣いをしていただき、感謝しかありません」

 そんな室井は現在、大和田成厩舎で持ち乗り厩務員をしている。今回のハットトリック急逝のニュースについて、電話で話を伺うと、答えた。

 「自分の担当馬として勝利したのはハットトリックが初めてでした。未熟な僕に色々な事を教えてくれた馬でした。既走馬相手に楽に抜け出したデビュー戦、32秒台の脚で後方から差し切った2戦目。どれも自分にとっては良い思い出です」

 自分の手を離れてからすでに16年の歳月が流れているが、今回の悲報に心を痛めている様は、声のトーンからよく分かった。多くの人に沢山の逸話を残し、世界を制したマイラーは異国で唐突に逝ってしまった。

現在の室井(右端)。自らの子供と甥っ子らと。ハットトリック担当時は独身だった(本人提供)
現在の室井(右端)。自らの子供と甥っ子らと。ハットトリック担当時は独身だった(本人提供)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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