徳川家康の時代、無能者の烙印を押されて消えた3人の二世大名
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、数々の大名が消えていった(あるいはこれから消える予定の大名も)。今回は、徳川家康の時代、無能者の烙印を押されて消えた二世大名の3人を取り上げよう。なお、二世というのは、父が偉大だった大名とする。
1.今川氏真(1538~1614)
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、父の義元は戦死した。その後、氏真は奮闘したものの、退潮は著しく、永禄12年(1569)に掛川城を開城した。これにより戦国大名としての今川氏は滅亡した。
父の義元は、「公家化した軟弱大名」と言われたが、それは言い過ぎだろう。「今川仮名目録追加」の制定など、功績は多々あった。しかし、氏真もまた、和歌や蹴鞠を得意としたので、父と同じ低い評価を受けた。
氏真は偉大な父を失ったので、同盟関係にあった武田氏や北条氏だけでなく、家臣からも見放された。決して無能ではなかったと思うが、運がなかった。晩年は豊臣秀吉や徳川家康の庇護を受け、子孫は高家になった。
2.武田勝頼(1546~82)
武田勝頼もまた、父の信玄が偉大だった。天正3年(1573)の長篠の戦いにおける、織田・徳川連合軍との敗北が強調されるが、以降、滅亡まで7年もの歳月を要した。急速に衰えることなく、よく家を保ったのだ。
天正9年(1581)、勝頼は織田信長との和睦を模索したが、実現しなかった。翌年、織田軍が甲斐に攻め込むと、配下の者たちは次々と勝頼を見限って離反した。まったく、運がなかったのである。
後世の勝頼の評価は実にさまざまである。父の信玄は、勝頼の才覚を認めていたという。逆に、裏切った配下の穴山梅雪は、勝頼が讒人を登用したと非難する。いずれにしても、勝頼を無能とまでは言い切れまい。
3.大内義隆(1507~51)
大内義隆の父・義興は、周防など5ヵ国の守護を務めた人物である。義隆は文芸を好み、明や朝鮮と貿易をし、キリスト教の布教を認め、山口を文化都市として繁栄させた。その功績は、非常に大きいといわざるを得ない。
しかし、政治的手腕は乏しかったようで、家臣の陶晴賢と対立し、最終的に自害に追い込まれた。当主が家臣をコントロールするのは当然のことであるが、その力量が不足していたようだ。
義隆は政治に向かなかったようだが、文化や経済の方面では、類稀なる能力を発揮した。違う側面から義隆を評価すれば、一概に無能と切り捨てる必要はないように思う。