民主主義を守るためには要請よりも法的強制がいいのだ
人はリスクと付き合うことなくしては生きられません。故に、リスクを合理的に計算し、必要なリスク対策を講じ、自分のリスク許容度の範囲内のリスクをとって生きているのです。この点、人が生きることも、企業が事業活動を行うことも同じです。そこで、政策当事者は、人や企業のリスク計算に上手に影響を与えて、法律によらない事実上の強制力を発生させ、人や企業の行動様式を変更させようとします。その際、極めて有効なのは名声や社会的評判が毀損するリスクを操作することですが、そこには民主主義に反する面がありはしないか。
リスクを操作して行動を変える
人や企業は、外部環境の絶えざる変動に応じて、自分を取り巻く無数のリスクについての評価を常に変化させ、リスクを合理的に再計算して、そのたびに生活様式や経営行動を調整しています。さて、外部環境のリスクのうち、天災等の自然環境にかかわるリスクについては、リスク自体を変えようがなく、それを受け入れるしかないわけで、人間にできることは、リスクに対峙する仕方を工夫することだけですが、経済、政治、倫理道徳等の人間の生活が作り出す社会環境に起因するリスクの場合には、リスク自体を変え得るという本質的な差があります。そして、リスクを変え得るということは、リスクを変えることで、人や企業の行動を変え得るということでもあります。
慶應義塾大学病院の事案
その社会的リスクのうち、特に問題になるのは名声や社会的評判が毀損するリスクです。名声といえば、まさに名声高き慶應義塾大学病院の興味深い事例があります。同病院によれば、3月31日に99名の初期臨床研修医のうち1名の新型コロナウイルスへの感染が確認され、直ちに全員について検査と行動調査を行ったところ、18名もの感染が確認され、この集団感染の背景として、約40名による集団会食の事実が判明したとのことです。もちろん、同病院においては、感染拡大が懸念されるなかで、集団会食を行わないように厳しく指導してきたわけですが、それが守られなかったということです。
こうした詳細がわかるのは、同病院のウェブサイトに、4月6日付の病院長による報告が公表されているからです。詳細を公表したのは、集団感染の裏にある集団会食の不名誉な事実は、もはや事実として動かせないために、早急にして徹底した対策を講じた事実を即座に公表することで、名誉回復、あるいは少なくとも更なる名声の毀損回避を狙ったものでしょう。
なかでも、「今回の初期臨床研修医のとった行動は、患者さんを守るべき医療者として許されない行為であり、医師としての自覚が欠如していたと言わざるを得ません」と断じたことは注目に値します。また、もう一つ注目すべきなのは、慶應義塾大学病院という著名な病院での事件として広く大きく報道されたことで、おそらくは、逆に報道が先行したからこそ、病院長による即座の情報開示があったのだと思われることです。
強力な強制力の発生
全ての病院と全ての医師に対して、当事案は決定的な作用を及ぼしたに違いなく、もはや、どの病院においても、緊急事態宣言が発せられている状況のもとで、医師や職員による集団会食のなされる可能性は全くなくなったと思われます。なぜなら、集団会食を行うことのリスクのうち、そのことが集団感染を引き起こすリスクは少しも変動していなくとも、それが露見した場合において、「医師としての自覚」を欠き、「医療者として許されない行為」をしたものとして、名声が毀損するリスク、および社会的批判を浴びるリスクが激増したために、リスク計算上、それらのリスクをとることの合理性が完全に失われたからです。
ここで、深く考えられなければならない問題は、社会的評判の毀損リスクは、事例の公表を通じて、事実上の強制力として機能して、人や企業の行動を変え得るということです。確かに、感染症対策には固有の特殊性があって、集団感染の発生においては、二次的拡大を防止するために発生源の実名が公表されるため、社会的評判の毀損リスクに直接に作用して、人や企業の行動に大きな影響を及ぼすのですが、他の事案についても、事例の公表という方法を用いれば、同様の強制力を作り出すことが可能なのです。
他人のリスクを自分のリスク計算に取り込むこと
さて、究極の論点は、自分が負う社会的評判の毀損リスクを経由して、他人が負うリスクを自分のリスク計算に取り込むことです。自分の行動が他人にとってリスクになり得るのは普通のことで、そのリスクは損害賠償責任等を経由して自分に跳ね返ることが予想されるとき、自分自身のリスクとしてリスク計算に取り込まれ、個人や企業の行動を社会的に合理化しています。社会的に合理化するという意味は、自分自身が負う損害賠償責任等のリスクを最小化する努力を通じて、他人が被るリスクも最小となる帰結を生み、社会的に最適な状態を実現できるという意味です。
ところが、感染症の場合には、自分の行動が感染症の拡大に寄与してしまう可能性について、個別具体的な損害賠償責任等の形態でリスク認識され得ないため、リスク計算に取り込まれることはありません。故に、おかしなリスク許容度をもつ人は、集団会食し、夜の繁華街を彷徨するのです。そこで、政策当事者は、法的強制力を行使できない現実のなかで、社会的評判の毀損リスクを大きなものとして認知させ、合理的なリスク計算を通じて人の行動を律しようとするわけです。実際、自粛要請は、自粛に反することの社会的評判の毀損リスクを通じて、法的強制力に準じた力を発揮しつつあるようです。
同様のことは、環境問題についてもいえます。自分の行動が世界環境に影響を与えて人類の生存を危機に陥れる可能性は、誰にとっても、どの企業にとっても、具体的な自分自身のリスクとしては計算され得ません。そこで、国連は人間の普遍的な理性に訴えて、理性的には誰にも反対し得ず、賛同せざるを得ない目標として、生存環境の維持を掲げ、それへの賛同と積極的寄与を世界中の国家と企業に求めていて、それに反した行動は、非合理なものとして社会的評判が毀損するリスクの大きなものとみなされることを通じて、国家と企業の合理的なリスク計算に反映され、抑止されると期待されているのです。
例えば、石炭を使った火力発電所の建設の場合、現に有効な環境基準に適合し、あるいは基準を上回る厳格な環境対策が講じられていても、世界の世論の動向が石炭の利用に否定的に傾き始めているとき、発電事業者として、また、事業資金を提供する金融機関として、社会的批判を受けるリスクを高度に評価せざるを得ず、事実上、断念せざるを得なくなりつつあるわけです。
世論の危険な暴力
国連の場合には、法律上の強制力を行使できないために、全人類の理性に訴え、世論の形成を操作するほかないという立場の特殊性があるのですが、ならば、それぞれの国家において、自然な世論の形成のもとで、世論の立法化を促すことに専念すべきです。例えば、石炭火力発電所の建設において、政治の問題として法律上の強制力を伴う措置により建設できなくなるのならば、当然のこととして誰もが納得できるわけですが、法律上可能なことが国際的な世論の圧力で不可能になるというのでは、理不尽な面を否定できないのです。
新型コロナウイルス感染症対策においては、法律上の緊急事態宣言に基づこうが、そうでなかろうが、法律上の強制力のない多数の要請が政府からなされるわけですが、国民の理性に訴えるしかないなかでは、結局は、要請に従わないことに対する批判的な世論の形成に期待することにならざるを得なくなっています。実際、自粛要請に対する企業の対応を決定するリスク計算においては、従業員や顧客から感染者が発生するリスクや集団感染源となるリスクなどよりも、自粛要請に従わないなかで、それらのリスクが顕在化したときに、実名が公表され、社会的批判を受ける二次的リスクが圧倒的に大きな役割を演じていると想像されます。
ここには、明らかに大きな危険が潜むのです。事態が先鋭化していけば、自粛要請に従わないことによって、非国民呼ばわりされかねない可能性が生じますが、そうなれば、新型コロナウイルス感染症に対する恐怖にも劣らない恐怖を引き起こすでしょう。その構図は、現政権を担うものについて、政治的反対勢力を非国民呼ばわりするような世論の操作を許してしまえば、民主主義は危機に瀕し、独裁への道が開かれるのと同じです。
それに対して、緊急事態宣言に基づく措置に法的強制力を付与しても、感染症という事案の性質からして、その背後に政治的立場を超えた全国民の理性的合意を容易に想定できるわけですから、民主主義の原則に反することはありません。諸外国において法的強制力が付与されているのは、単に施策の実効性の問題だけなのではなく、民主主義の原理原則に忠実だからなのだと思われます。