株式投資を小さな家計から出発させて大きな世界を見ること
自分の家計という小さな世界から出発して、株式投資を行うことで、グローバルな視野を獲得でき、視野が拡大するからこそ、株式投資が面白くなるわけです。
消費と株式投資
株式投資においては、多数の銘柄に分散して投資するのが原則です。銘柄の選択と分散の基準には様々なものがあり得ますが、投資家が自分の好みに応じて勝手に決めればいいことで、その自由さに投資の面白みや喜びがあるわけです。しかし、一応は、選択と分散の理屈を考えてみても、損はないでしょう。
発想の基本は、資金が経済のなかで循環していることです。そもそも、株式に投資する価値があるのは、資金が発行体企業のなかを流れていく過程で、付加価値が創造されるからです。循環には起点も終点もありませんが、敢えて思考の出発点を設ければ、それは働く人の消費です。
働く人が消費すれば、資金が産業界に投じられ、投じられた資金は、消費財を販売する企業から、それを製造する企業へ、そこから更に、原材料を製造販売する企業へ、あるいは製造装置を製造する企業へと、産業連関を辿って流れていきます。その過程で、様々な企業に売上げをもたらし、その売上げから働く人に賃金が支払われて、働く人の消費の原資になります。これが経済の循環です。
この循環に基づけば、消費対象に関連した企業を投資対象にすることは、株式投資の自然な方法になり得るわけですし、現金を保有せずに株式投資に回すことの目的は、現金の購買力の保存、あるいは増大にあるのですから、その意味でも、株式投資は消費との関連において検討されるべきなのです。
消費対象が投資対象
事実として把握できるのは、自分自身の消費活動だけですから、その事実に従うのが確かですし、株式投資を特別なものとせずに、日常生活の自然な一部にするためにも、自分の消費のあり方に基礎を置いたほうがいいのです。実は、株式投資が日常のなかにあるからこそ、短期的な株価変動に心理的に惑わされることなく、長期の視点で投資を継続でき、長期の視点で投資を継続するからこそ、成果につながるのです。
また、誰でも自分の消費対象に関心をもちます。その関心が消費対象の製造業者に興味をもつ契機となり、製造工程を調べて原材料等の調達先を知ることで、産業連関が理解されるわけです。産業連関が理解されれば、必ずしも最終消費財関連の企業に投資する必要のないことに気づかれ、産業連関上で密接に関連する企業も、投資対象の候補として浮上してきます。
金鉱よりもスコップ
映画の西部劇に描かれていたように、昔のアメリカの西部がゴールドラッシュで沸いていたとき、金を掘り当てて富を手にした人は極めて少数だったのに対して、一山当てようと大量に押し寄せてきた人々に、スコップなどの道具や、食料などの日用品を売った人は安定的な利益を得たでしょうし、酒場を経営した人は大いに儲けたに違いありません。
金鉱を掘ることは、著しく成功確率が低い一方で、成功したときの利益は巨額になりますが、金鉱掘りに必要な物品を販売する事業は、利益は小さくとも、成功確率は高いのです。つまり、不確実性が大きければ、期待利益も大きく、不確実性が小さければ、期待利益も小さいわけで、この投資の基本理論が金鉱よりもスコップという古くからある格言に表現されているのです。
投資の理論は、理論として理解されるよりも、金鉱よりもスコップという格言の意味を考え、自分の消費した資金の流れを思い描き、産業連関について見通しをもって調査し、実際に銘柄選択をして、その投資成果のなかで、実感として体得されるべきものです。
銘柄分散の基準
誰でも、家計簿をつければ、住宅、通信、飲食、服飾、娯楽、交通などの消費対象の構成比を簡単に把握できます。こうした個人の消費の構成比は、その集積において、産業界の業種の構成比を規定しているわけですが、事実として知り得るのは、自分自身の消費のあり方だけですから、その構成比に基づいて、投資対象の株式の銘柄の業種分散を考えれば、それで十分です。
グローバル株式投資
衣服を買えば、製造国の表示があり、食品を買えば、原材料の生産国の表示があります。表示を確認する習慣のなかった人でも、株式投資をすることで、商品の背後の産業連関に思いを馳せるようになれば、自分の買ったものの原産国を知るように、日頃から心がけるようになります。株式投資を学ぶということは、投資自体を学習するのではなく、日常の消費生活のなかから産業構造を学習し、それを投資に活かすことなのです。
さて、こうした習慣のもとで、世界経済の仕組みを考えれば、直ちに、国境を越えた緊密な結合に思い至るはずです。我々が日本のなかで消費した資金は、実は、その少なからざる部分が国境を越えて日本の外へ流れて行っていて、逆に、日本には、日本の外で消費された資金が大量に流入しているわけです。こうした国境を越えた資金の流れこそ、経済のグローバル化、即ち、国内経済がグローバル経済の部分として包摂されていくことの意味なのです。
国際分散投資などという言葉をもち出すまでもなく、産業連関を辿る株式投資を実践すれば、必然的に、日本株式への投資はグローバル株式への投資に展開し、日本株式はグロ-バル株式のなかの部分へと解消されていくわけです。
世界市民社会の成立へ向けて
英語のグローバルは、球を意味するグローブの形容詞形で、球は地球です。ここで決定的に重要なのは、球の表面に中心がないことです。これに対し、地球を平面の地図にすれば、必ず中心が生まれますから、例えば、日本で売られている世界地図では、日本が中心となるわけです。
ここに、グローバルとインターナショナルの本質的な違いがあります。インターナショナルは、一つの国家を中心にして、その国家と他の国家との関係を意味するのに対し、グローバルは国家を超えた地球という次元にあるわけです。故に、真のグローバル社会は、地球が一つの国家に統合されたときに成立し、地球が一つの国家になれば、国家はなくなるのです。
人類の歴史は、暴力による支配の歴史ですが、近代市民社会としての国家の成立は、国内における理性の支配を実現し、暴力による支配を否定する一方で、かえって、戦争という国家間の暴力の行使を正当化させました。理性の勝利を信じ、世界市民社会の成立を目指す理想主義の立場からいえば、グローバル化は、歴史の進歩であり、人類の叡智の進展なのです。
家計と企業のグロ-バル化
経済のグロ-バル化は、企業のグローバル化に直結していて、その国籍は株式を上場している場所という形式にすぎなくなっています。グローバル企業のなかには、国境を越えた世界社員社会があり、グローバル企業間の産業連関の結合を通じて、それらの世界社員社会も結合しています。確かに、同一産業における世界的な主導権をめぐる企業間の熾烈な競争があるにしても、企業のグルーバル化は、世界市民社会の成立へ向けて、重要な意味をもつわけです。
そして、家計のグローバル化も重要です。インターネットを通じた商取引は、家計の消費をグローバル化させ、家計の消費のグローバル化が企業をグローバル化させ、企業活動のグローバル化が家計をグローバル化させるという循環があります。この循環のなかに資金を投じることこそ、株式の国際分散投資の本質なのです。
国家の抵抗
政治、あるいは国家は経済の上部構造にすぎないわけで、どの国の経済にも、宗教的、文化的、歴史的、その他の様々な理由により、グローバル化に抵抗する勢力がいて、政治を左右します。現状、巨大グロ-バル企業と国家との闘争は、国家間の対立と協調が錯綜するなかで、極めて複雑な状況を呈していて、非常に興味深い事態が進展しているわけです。
自分の家計という極小の世界から出発して、株式投資を行うことで、ここまで視野を拡大できるのですし、視野が拡大するからこそ、株式投資が面白くなるわけで、世界中の人が大きな視野で楽しく投資をすれば、世界市民社会の成立も現実味を帯びてくるでしょう。