ロシアだけではなかった!戦国時代に勃発したクーデター3選
ロシアではクーデターが勃発したが、失敗に終わったようだ。戦国時代にもクーデターが勃発したので、そのうち3つを紹介することにしよう。
1.竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り(永禄7年/1564)
竹中半兵衛の主君・斎藤龍興は、一部の側近を重用し、酒色に溺れるなど堕落した生活を送っていた。そこで、半兵衛は舅の安藤守就とともに龍興の居城・稲葉山城(岐阜城)を占拠し、龍興を追放した。まさしく、半兵衛によるクーデターである。
その後、龍興は勢力を巻き返し、半年余りの攻防の末に、半兵衛から稲葉山城を奪還した。敗北した半兵衛は、隠棲したのである。これまで、半兵衛が龍興を諫めたうえで、城を返還したとされてきたが、それは誤りであると指摘されている。
2.明応の政変(明応2年/1493)
同年2月、足利義材(義稙)は畠山基家を討つため河内国に向かった。しかし、義材の出陣は周囲からの反対があり、それは細川政元も同じだった。そこで、政元は日野富子らの協力を得て、新将軍として足利義澄を擁立したのである。
政元らのクーデターによって、義材は孤立無援となり降伏し、上原元秀の屋敷に連行された。同年6月、義材は元秀の屋敷から逃亡し、越中国の神保氏を頼った。以後、2人の将軍が存在することになった。明応の政変は、戦国時代の始期であるといわれている。
3.本能寺の変(天正10年/1582)
同年6月2日、明智光秀は織田信長が滞在していた本能寺を襲撃し、信長を自害に追い込んだ。光秀は中川、高山、細川などの諸氏に味方になるよう懇願したが、すべて断られた。思い通りにいかなかった光秀は、少しずつ窮地に追い込まれたのである。
同年6月13日、光秀は羽柴(豊臣)秀吉と山崎(京都府大山崎町)で戦い、敗北した。戦場から離脱した光秀は、居城の坂本城(滋賀県大津市)を目指して逃亡したが、小栗栖(京都市伏見区)で土民によって討たれたのである。