落合博満の知られざる名勝負――若き三冠王が放った起死回生の3ラン本塁打【後編】
1983年8月31日に西宮球場で行なわれた阪急とロッテの20回戦は、阪急が2年目の山沖之彦、ロッテはこの年に初勝利を手にしたばかりの中居謹蔵が力投し、8回までスコアレスの投手戦にとなる。ペナントレースは西武が独走しており、観客は“世界の盗塁王”福本 豊があと1本に迫った通算2000安打を達成する瞬間を待っていたのだが、その1本を見られぬままに迎えた9回表、一死から連打で一、三塁のチャンスを築いたロッテは、前年に史上最年少の28歳(当時)で三冠王を手にし、四番に座っていた落合博満が会心の3ラン本塁打を放つ。
大騒ぎの三塁側ベンチに戻ってきた落合に、中居はすかさず駆け寄って「ありがとうございます」と帽子を取る。
落合も笑顔でこう返す。
「3点あれば余るだろう」
そうして、9回裏の守りにつくロッテの選手たち。ゆっくりとマウンドに向かう中居を追い越す際、有藤通世は「完封したら100万円をプレゼントするぞ」と声をかけたという。阪急の攻撃は八番から。中居は二死で5打席目の対戦になる福本が気になっていたが、抑える自信はあった。先頭の片岡新之介は詰まった一塁ゴロ、ベースカバーに走りながら中居は「よし、ワンアウト」と思ったが、打球は落合の前でややイレギュラーし、落合はそれを右手に当てて弾く。記録は落合の失策で無死一塁だ。
中居にはまだ余裕があったが、途中から九番に入っていた柴原 実に中前安打を許すと、球場のムードが一変する。福本に2000本目が出れば、阪急も逆転サヨナラ勝ちするかもしれないと感じた観客は、固唾を吞んで福本の打席を見守る。だが、この時は生みの苦しみに縛られていたようで、中居は冷静に低目のボール球で左飛に打ち取る。
これで中居は落ち着くも、だからこその慎重さが裏目に出て弓岡敬二郎をフルカウントから歩かせてしまう。一死満塁で、打席には松永浩美が入る。松永も、のちに通算1904安打のヒットメーカーになるが、この時は3年目、22歳の若手である。この試合は簑田浩二の欠場で三番に抜擢され、4回裏に右前安打を放っていた。だが、中居は嫌なイメージを抱いておらず、むしろ得意のフォークボールで併殺を取れると踏んでいた。
ひとつの勝敗が分けていく野球人生のドラマ
中居はフォークボールを連投。1球目はボール、2球目はファウル、3球目もファウルで1ボール2ストライクと追い込む。ここでロッテからタイムがかかり、山本一義監督がマウンドにやって来る。中居は勝負を急がせないためだと感じ、「大丈夫か?」という山本監督の問いかけに「平気です」と答える。
4球目も中居はフォークボールを続け、松永も必死にファウルする。5球目は外角低目に外れ、カウントは2ボール2ストライクに。そして、松永に対する6球目、この試合の157球目にもフォークボールを投じる。やや抜けた軌道は、松永にはようやく来たストレートに見えたという。力いっぱいスイングすると、芯でとらえた打球は瞬く間にライトスタンドで弾む。
8回までスコアレスの投手戦のあと、9回表に落合が3ラン本塁打を放ち、その裏に松永がグランドスラムでサヨナラ勝ちという劇的な展開は、パ・リーグの歴史でも初めて。松永は試合後すぐに帰宅し、テレビのスポーツニュースを片っ端から見た。そして、9回表の落合の一発が通算100号だったことを知る。
また、力投が報われなかった中居も、10月12日の阪急戦では山田久志に投げ勝って2勝目を挙げる。
「その試合でも落合さんがホームランを打ってくれて。それと、試合後に山田さんから『おまえはプロでやっていけるよ』と言われたのも嬉しかった」
だが、それは中居にとって最後の白星だった。一方、「落合さんの一発を消した、あのホームランが自分のスタート」という松永はスターダムをのし上がっていく。落合は、劇的なドラマをこう振り返る。
「あそこで打てなかったとしても、松永は一流になれただろう。でも、謹蔵が完封勝利を挙げていたら……あいつ、どうなっていただろうね。それが野球人の運命だ」
そして、落合の野球人生を振り返る際にも、この試合はほとんど取り上げられることがない。これほどの名勝負でありながらファンやメディアの記憶にはっきり残っていないのは、翌9月1日に福本が通算2000安打を達成したからだろう。
(写真=K.D.ARCHIVE)