【富田林市】聖徳太子と小野妹子!池坊も関係する喜志駅前飛鳥時代の偉人の石像に刻まれた驚くべき内容
近鉄長野線喜志駅と言えば、喜志の宮こと美具久留御魂神社の最寄り駅に注目しがちですが、もうひとつ、南河内郡太子町方面への玄関口でもありますね。
かつての金剛バスが利用していたバスロータリーは、現在近鉄バスの車両が止まっています。ここから太子町を巡回する「喜志循環線」を金剛ふるさとバスが運行しています。
さて、そんな太子町方面に向かうバス乗り場の横には、とても大きな石碑があります。それに「聖徳太子御廟」と刻まれています。
もちろん喜志駅前に聖徳太子の墓があるのではなく、喜志駅を拠点にしているバスに乗った先に聖徳太子廟があります。叡福寺の境内に安置されています。
つまり石碑は看板の一種というわけですが、ここで石碑をじっくり眺めるといろいろ刻まれていることがわかりました。
まず正面に小さく刻まれているのに「君川大島徳謹書」とあります。君川大島を調べると、名古屋出身の大島君川という、明治時代に活躍した書家の名前がでてきます。その方が謹んで「聖徳太子御廟」と書いたものを彫ったのだと思われます。
横を見るといつ頃建てられたのかが書いてあります。大正十(1921)年は、聖徳太子が没した西暦622年の1299年後です。この石碑は、1300年忌を記念して建設したとのこと。
見えにくいですが、石碑の下の台座の部分に「寄付人」とも読める文字が見え、その隣に大阪市西区松(松島?)とあって、その横に「中嶋庸佳」「中島鶴治」とも読めそうな漢字が刻まれています。この石碑の寄付者の名前でしょうか?
正面左横に書かれた「従是東弐拾五町」は、これより東に25町のところに聖徳太子御廟があるという意味と考えられます。25町とは2,727.27メートルなので、約2.7キロ東にあるという意味になりますね。
その下にも刻まれていて「大阪野江」「高輪?」「洋?」「話人(世話人?)」「谷口」などの字が見えますが、薄くて完全にはわかりません。富田林市(外部リンク)によると、石碑は大阪市内の篤志家によって建てられたとのこと。喜志駅は当時、太子口喜志駅という大坂鉄道の駅名で、聖徳太子御廟への最寄り駅として利用者が多かったそうです。
聖徳太子御廟の石碑のとなりに、もうひとつ小さな石碑があります。
「華衛元祖小野妹子之墓」と刻まれています。小野妹子といえば、聖徳太子と同じ飛鳥時代に遣隋使で活躍した人物です。そして小野妹子の墓も、太子町にある科長神社(しながじんじゃ)の南側にあります。
横には「京都六角堂華道家元池坊建之」と書いてあります。華道家元の池坊と小野妹子との関係を調べると、興味深い事実がわかりました。
京都六角堂の北側に聖徳太子が沐浴した池の跡があるとされ、そこにあった僧侶の住坊を「池坊」と呼ぶとのこと。聖徳太子の命で小野妹子が出家して池坊に籠り、聖徳太子の守り本尊である如意輪観音に対して、朝夕に仏前に花を供えたのが華道・池坊の発祥とされているそうです。
正面左側には「大正十一年三月」の文字があります。小野妹子の墓の石碑は、聖徳太子御廟の石碑の1年後に建てられたようです。
正面の下に「当駅ヨリ東一里山田村ニアリ」と書いてあります。山田村とは二上山のふもとにある現在の太子町山田です。東に1里とは3,927.27メートルなので、約3.9キロ東にあるという意味になります。
ふたつの石碑のある喜志駅と聖徳太子御廟のある叡福寺、小野妹子の墓の距離を地図で見る次のようになっています。
画像の近鉄バスにのれば叡福寺なら聖徳太子御廟前バス停に降りて行けますし、小野妹子の墓なら推古天皇陵前バス停から歩いて行く、もしくは太子町役場前からバスに乗り換えて科長神社口バス停まで乗って降りると行けます。興味があれば事前にバスの時刻を調べて、石碑で紹介されている御廟と墓にショートトリップしてみてはいかがでしょう?
喜志駅の駅前にあるふたつの石碑
住所:大阪府富田林市喜志町3丁目5-14
アクセス:近鉄喜志駅東口下車すぐ
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