【光る君へ】一条天皇の元服と藤原定子の入内により、盤石となった藤原兼家の地位
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、一条天皇の元服の模様が描かれていた。元服式では、藤原兼家が栄誉ある加冠役を務めた。また、藤原道隆(兼家の長男)の娘・定子は、一条天皇に入内した。これにより兼家は盤石な体制を築いたので、その概要を確認しよう。
寛和2年(986)6月、花山天皇が退位したことに伴い、一条天皇が即位した。同時に、外祖父だった兼家が摂政に就任し、繁栄の基盤を築き上げた。その後の即位式で、高御座に何者かの生首が置かれていたというが。これが史実なのか否かは判然としない。
永祚2年(990)に一条天皇が元服を迎えると、兼家は加冠役を務めた。加冠とは元服の際の儀式の一つで、衣服を改めるほか、髪を結って冠を着けた。また、それまで用いていた幼名を止め、烏帽子名(実名)を名乗った。烏帽子名を付けるのは、烏帽子親の役割だった。
加冠役とは冠を着ける役目のことで、もちろん誰でもいいというわけではない。重要な役割であった。その後、兼家は関白に就任した。このとき一条天皇は11歳だったので、通常の15歳前後よりもかなり早い。
さらに、兼家は体制をより強固にすべく、前年の永祚元年(989)に道隆(兼家の長男)を内大臣に任じた。『小右記』によると、兼家は2・3年にわたり、円融法皇に道隆を大臣にしてほしいと奏上してきたが、それは認められなかったという。兼家にとって、道隆の大臣への就任は悲願であった。
そこで、兼家は自身が高齢で長くないかもしれないので、近習の臣を大臣にするべきだと懇願し、ようやく円融法皇が同意したのである。つまり、兼家はあらかじめ一条天皇の父である円融法皇の同意を得て、それでもって朝廷に道隆の内大臣への昇進を認めさせたのである。
永祚2年(990)には、道隆の娘・定子が一条天皇に入内した。当時、定子は15歳だった。こうして定子は中宮(=皇后)になったが、大きな問題があった。
すでに皇后は、円融法皇の后の遵子(藤原頼忠の娘)がいた。遵子を皇太后にしようにも、皇太后は円融法皇の女御の詮子(兼家の娘)、太皇太后は冷泉天皇の后の昌子内親王(朱雀天皇の娘)がいた。
そこで、道隆は遵子の皇后はそのままにして、役所の中宮職を皇后宮職に改称した。そのうえで、定子の役所として中宮職をもうけたのである。これまで三后だったのに、四后になったのだから、かなり強引な方法であった。権勢を掌中に収めた藤原氏だったから、できたのである。