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ダメなように見えるが、実は意外に政治力があった3人の戦国武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
名島城跡。(写真:イメージマート)

 今も政治のゴタゴタが絶えないが、それは戦国時代も同じである。しかし、ダメなように思えても、意外に政治力のある戦国武将は存在した。そのうち3人を取り上げるようにしよう。

◎足利義昭(1537~97)

 室町幕府最後の将軍(15代)の足利義昭は、兄の義輝が三好三人衆に殺害されると、幕府を再興すべく各地の武将に協力を呼び掛けた。この頃から、義昭は類稀なる行動力と政治力を発揮していた。その後、義昭は織田信長の協力により上洛し、幕府再興という悲願を叶えたが、のちに決裂したのである。義昭は信長に敗れたが、交渉力を発揮して、上杉謙信、毛利輝元、大坂本願寺や諸大名に「打倒信長」の檄を飛ばした。

 その後、義昭は輝元を頼り、大坂本願寺などと結託して「信長包囲網」を形成した。しかし、信長が本能寺で横死したというチャンスを生かしきれず、最終的に豊臣秀吉に屈したのである。

◎別所長治(1558~80)

 三木城(兵庫県三木市)主別所長治は織田信長の台頭とともに、その配下に加わった。しかし、天正6年(1578)2月、長治は信長に叛旗を翻したが、あらかじめ足利義昭、毛利輝元、大坂本願寺と結んでいたのである。こうして政治力を発揮した長治だったが、情勢はだんだん不利になった。

 長治は長期の籠城戦を覚悟していたが、戦闘が進むにつれ、兵糧を確保することが困難になった。頼りの輝元が思うように兵糧を搬入してくれなかったからだ。天正8年(1580)1月、長治は秀吉に屈し、城兵の助命を条件として、一族が自害したのである。

◎小早川秀秋(1582~1602)

 筑前名島城(福岡市東区)主の小早川秀秋は、慶長5年(1600)7月、石田三成ら西軍が徳川家康に対して挙兵すると、最初は西軍に与していた。その後、秀秋は東軍の黒田長政らから東軍に与するよう説得されるが、明確な態度を示さなかった。結局、秀秋は合戦前日の9月14日、家康と和睦を結び東軍に身を投じた。

 合戦当日、秀秋は東軍の一員として出陣し、大いに軍功を挙げた。家康は秀秋の功を称し、宇喜多秀家が領していた備前・美作を与えたのである。秀秋は優柔不断のように思えるが、実は意外にも政治力があったのだ。

◎まとめ

 最終的にはうまくいかなかった戦国武将もいたが、その過程においては、かなりの政治力を発揮した者もいた。この3人は、その好例となろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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