長谷川潤(元読売ジャイアンツ)がNPBに再挑戦!進化した姿でトライアウトに挑む
■可能性がある限り挑戦する
「僕、トライアウトを受けます」―。
まっすぐ射るような目でキッパリとそう言いきったのは、現在BCリーグの石川ミリオンスターズに所属する長谷川潤投手だ。
金沢学院大を卒業したあと、石川に入団して2年目のドラフトで読売ジャイアンツから指名された。
しかしケガによって2年で選手生活に別れを告げ、1年間はジャイアンツで打撃投手をしていた。だが、やはり現役への思いが断ちきれず、再び古巣の石川に戻って今季はローテーションの一角として活躍した。
そこで手応えを掴んだのだ。もちろん、体は万全である。
「NPBに再挑戦」―。決意を固めた。
自身の信条は「可能性がある限り挑戦する」だから。
■読売ジャイアンツからドラフト指名され、育成から支配下へ
この日、石川球団の事務所ではNPBドラフト会議のパブリックビューイングを行っていた。
「自分のときもみんなが来て祝ってくれたし、またちょっと自分の中でも(NPBに)戻りたいっていう気持ちも高ぶるかなと思って」と、長谷川投手もその場に駆けつけた。
「自分のときは何時ごろに指名されたかな」、「期待と不安と…どういう気持ちで待ってればいいんだろう、みたいな感じだった」などと、5年前の光景や心情が蘇ってきたという。
あのときは、指名が進んでもなかなか呼ばれなかった。
「やばい、やばいってなって…」、その年の一番最後にコールされたのが「長谷川潤」で、育成8位だった。
支配下登録は思いのほか早かった。
春季キャンプは3軍でスタートしたが、2軍との紅白戦で好投した。すると2軍の試合に呼ばれ、そこでも結果を出し、3月の教育リーグが始まるころには2軍に昇格した。
中継ぎで何試合か投げたあと、先発のチャンスをもらい、7回をビシッと抑えた。試合後、GMから電話があり、支配下になることが告げられた。
「年も年だから絶対に1年で、とは思っていた。7月31日までに一生懸命アピールして、来年の契約のときに…」。
「年も年だから」と言いながら、支配下登録の期限である「7月31日までに」ではないという、ややのんきな青写真ではあった。
しかし予想もしていなかったスピード出世に、「早っ、早っ、早って感じでスピード感がえげつなすぎて、自分でもついていけなかった(笑)」と、本人も驚愕するばかりだった。
2016年3月28日のことである。
そして早くも5月6日、初登板初先発のチャンスが訪れた。東京ドームでの中日ドラゴンズ戦だ。
勝利投手の権利を得るまであとアウト1つというところで逆転を許し、4・2/3回で降板した。この年は通算3試合の登板でシーズンを終えた。
そのオフ、肘に違和感があり手術する案も出たが、トレーニングをしながらの保存療法を選択した。しかし翌年、投げられるようにはなったが状態は上がらず、1軍登板も叶わなかった。
そして戦力外を告げられた。
■打撃投手に転身
球団から打診されたのは打撃投手の話だった。ありがたかったが、まだ現役を続けたい気持ちが残っていた。
「ジャイアンツは上がいっぱい詰まっていたし、なかなかチャンスは来ないから、それならほかのチームで挑戦したい」。
しかし肘の痛みは抱えたままだった。そこでずっとお世話になってきたトレーナーに相談した。「僕の今の体の状態で、挑戦できると思いますか?」と。
すると「もしどこかが獲ってくれたとしても、やれてあと2〜3年くらいかな。長いことは無理だ」との答えが返ってきた。
「僕が悩んでるから、踏ん切りをつけさせるために引導を渡してくれた」。
信頼する人の言葉だから納得できた。そこでトライアウトも受けず打撃投手を引き受けることにした。
ただ、未練はある。球場に行くとやりたい気持ちになる。そこで「バッピじゃなくて球団の職員にしてほしい。スーツ着て仕事がしたい」と嘆願した。
けれど「ひとまずバッピからスタートして、将来的にどういう仕事ができるのか判断する。もしかしたらバッピが一番合う仕事かもしれない。まずはやってみろ」と却下され、素直に受け入れた。
しかし案の定だった。春季キャンプに入って、すぐだ。
「ダメ。オレ、向いてない…」。
そもそも“裏方”というものに不向きだと気づいた。打撃投手として投げていても、自分が注目を浴びたかった。
「やっぱり自分が一番だから、裏方に徹することができない。結局、選手のためにじゃなくて、自分のために選手をサポートしてるってなってたから、これは続けるのは無理だって気づいた」。
しかし契約した限りは途中で投げ出して迷惑をかけることはできない。ファームディレクターにだけは本当の気持ちを打ち明けると「トレーニングや練習もやりながら、今の仕事はしっかり頑張ってくれ」と理解を示してくれた。
それに応えて任務はきちんと遂行した。
そんな折、3軍の試合で投手が足りなくなり、登板できることになった。
「たぶん諦めさせるためだと思うけど、よけいに僕の中で燃えちゃった。やっぱ楽しいなって(笑)」。
燻っていた種火に引火し、その炎は瞬く間に全身を支配した。
いよいよ気持ちは固まったが、秋季キャンプまでは仕事があった。
キャンプ地に入り、就任したばかりの原辰徳監督に挨拶をするとともに、辞めてまた現役に挑戦したいということを告白した。
すると「オレ、見てやるよ。よかったら獲るから」と言ってくれた。3〜4日の準備期間もくれ、ブルペンで極秘テストをしてくれた。
スピードは130キロほどしか出なかったが、「トレーニングすれば140くらい出るんだろ?」と検討してくれた。が、残念ながら合格とはならなかった。
きっと、あくなき挑戦をしようとする若武者の心意気に打たれ、チャンスをくれたのだろう。それには長谷川投手も大いに感謝した。
■肘のクリーニング術を経て、石川に復帰
次に目を向けたのは海外だった。しっかりとフォームを固めていけば大丈夫だと手応えがあった。
オランダで野球経験のある上園啓史氏(阪神タイガース―東北楽天ゴールデンイーグルス―オースターハウト・ツインズ)から連絡があり、チームを紹介してくれることになった。
あとは契約書にサインをして送り返すというところまできたとき、悲運に見舞われた。
肘だ。
1月の自主トレ中、痛くて投げられなくなった。ここまでは騙し騙しやってこられた。しかし強度を上げていくと肘が悲鳴を上げたのだ。
石川の片田敬太郎フィジカル&パフォーマンスコーチに相談すると、「いろいろ手を加えて3月のオランダ行きにギリギリ間に合わせることはできるけど、そこから先、ひとりでやっていくのは無理だろうな」と言われ、手術を勧められた。ただ手術をすると、とうてい間に合わない。
そこで腹を決めた。「手術したほうが自分でも納得がいく」と思えた。
1年目のオフ、保存療法を選んだことが今も自身の中に楔のように残っていた。
「あのとき手術さえしとけば、もっとやれたんじゃないか」という思いは、常につきまとっていたのだ。
手術を決意すると同時に、石川が「練習生なら」と受け入れてくれることになった。
となると即、手術をして2月中旬から始まるキャンプに間に合わせなければならない。そこですぐに石川で住む部屋を探し車も調達した。
引っ越した日の夜に入院し、翌日手術。4日後に退院して、キャンプインした。
「あんまり詳しくは聞かなかったけど、なんかいっぱい“ネズミ”がいたらしい(笑)」。
“ネズミ”とは遊離軟骨のことだ。骨片が痛みの原因だった。それらをすべてきれいにクリーニングした。
■開幕投手で現役復帰するも、紆余曲折
そこから4月8日の開幕戦の先発という目標設定をした。
地方のチームにとって、開幕戦は地元出身、もしくはゆかりのある選手を先発させることが最も盛り上がる。
金沢学院大出身で、しかもNPBからの復帰だ。長谷川投手が開幕投手を務めることがベストだ。
5回…いや、たとえ3回でも投げられれば、内田幸秀投手や永水豪投手が第2先発として控えている。そこに向かってリハビリに励んだ。
術後のリハビリ中は前に進むだけでなく、後ろに下がることも多々ある。ところが長谷川投手の場合、ずっと順調だった。「なんの壁にもぶち当たらずにいけた」と述懐する。
5割程度の回復で迎えた開幕戦は、自身にとって一つの節目となった。
白星こそつかなかったが、5回を7安打1失点。“ハセジュンらしさ”を随所にちりばめた74球の復活劇だった。(その当時の記事⇒開幕戦)
そこからローテーション投手として4月3試合に先発し、5月9日には最長の7回、最多の122球を投げられるまでになった。
ところが同30日の信濃戦で初回に8安打で7失点(自責は6)し、ノックアウトを食らった。
しかし、その試合をきっかけにさまざまなことに取り組み、ようやく「したい動きと体が一致し始めた」と、手応えを掴むことができた。(その当時の記事⇒手応えを掴んだ3勝目)
その後、だんだんと状態は上がったが、そうなると今度は逆に、ついつい難しく考えすぎるようになってしまった。さらに、若い選手に見せなきゃいけないという思いも常に頭にあった。
それらが幾重にも重なり、プレッシャーとなって長谷川投手を苦しめた。
■スイッチが入り、体の状態も上がり、可能性が見えた
当初は自分がどこまで投げられるようになるか、まったくの未知数だった。
とてもじゃないがNPBに戻りたい、トライアウトに挑戦したいといえるレベルにまで達していなかった。
それは体の状態もそうだが、まだまだ「自信」を取り戻せていなかった。そこで、まずはまた野球ができるということを楽しもうと考えていた。
しかし気持ちには波がある。6月から7月にかけて「やっぱもう無理なんかな…」と弱気な心が頭をもたげた。
「独立リーグからプロに行こうとしていたときとか、入って1年目の絶対に1軍に上がってやるんだってときくらいの熱量が自分の中で感じられない。気持ち的にダメなときはダメだな。もう辞めどきかな…」。
すると7月26日、これまた信濃戦で先発して4回7安打6失点で負け投手になった。
そのときだ。
「めっちゃ悔しかった。くっそー、みたいな」。
武田勝監督と話すと「まだ悔いが残るとか、悔しいっていう気持ちが生まれているうちはやれるよ。そこでオレ終わりだなって思いだしちゃうと現役選手はできない。オレもそうだった」と言われた。
そこでスイッチが入った。と同時に体の状態も上がってきた。
そしてシーズン終盤、チーム事情から中継ぎで3度、登板した。
ショートイニングなので飛ばしていけること、緊張の場面でマウンドに上がることでアドレナリンが出ていること、などから先発とは違うピッチングができた。
「(球速も)142キロまで出るようになった。肩肘も痛くない」。
このころ、ようやく「マックスでいけるようになった」と、体の状態も10割まで回復した。そこで初めて自分の中に「NPB」が見えた。
「6月までは0%だった。でも、ちょっとでもチャンスがあるならトライしようっていうのが、僕の人生でのスタンスなので」。
11月12日に行われる12球団合同トライアウトを受けようと決意した。
■ジャイアンツ時代より進化
求められるのはジャイアンツ時代以上のものだ。
長谷川投手にとっての“上積み”とは、コントロールだと胸を張る。
「右にも左にもインサイドへ思いっきり投げ込める能力は、絶対に上がっている」。
インサイドへの強気の攻め、ボールの出し入れには自信を見せる。サイドハンドから繰り出す140キロ超えのストレートもキレを増した。
また後輩たちに教えることで、これまで感覚的にやってきたこともしっかり理論として言葉に表せるようにもなり、自身の知識や引き出しも増えた。
トライアウトに向けて、今は自分をいじめ抜く日々だ。しかしどこか楽しそうである。
「なんか根拠のない自信がある。僕、4年周期でいい年が来るんで。来年はいい年だから(笑)」。
ちょうどオリンピックと連動している。オリンピックイヤーとなる来年は、いい年が巡ってくる周期だという。根拠はなくても、そういうデータが今の自分を支えてくれている。
しかし、これも自力なのだ。これまでも「いい年」が巡ってきたのは、自身が挑戦したからにほかならない。動かなければ何も引き寄せることはできないのだから。
「可能性がある限り挑戦する」―。
その信念を貫く限りきっと、長谷川投手は幸運を引き寄せるに違いない。
(撮影はすべて筆者)