殿堂入り平松政次の剃刀シュートと長嶋茂雄のプライド
その柔和な笑顔から感激が伝わってきた。
平成29年度の野球殿堂入りが発表され、プレーヤー表彰は、現千葉ロッテ監督の西武黄金時代を支えた名捕手、伊東勤氏、エキスパート表彰では、中日、阪神、楽天の3球団で優勝監督となった星野仙一・楽天副会長、大洋ホエールズのエースとしてカミソリシュートを武器に201勝を記録した平松政次氏の3氏が選出された。東京ドームに併設されている日本野球殿堂博物館で行われた、その通知式を覗いたが、今回の選出を心から喜んでいた平松氏の姿がとても印象的だった。
殿堂入りの会見では「夢ではないか」と頬をつねってみせ「最高の栄誉」と語った。
エキスパート部門にノミネートされて9年。「若い原が入るなど、どんどん抜かれていき、もう届かないのではないか」と、あきらめかけていたところへの朗報。しかも、無効票が1票なければ、有効投票数の75パーセント以上となる必要投票数が85票となっていて、84票の平松氏は、また落選しているところだった。事前に内示があった際「涙が出た」という。
平松氏の通算201勝は、ただの201勝ではない。在籍時のホエールズは、優勝が一度もない弱小チーム。そこで、最多勝と防御率タイトルを獲得して、しかも、201勝のうち51勝は、巨人から稼いだものである。この数字は金田正一氏の65勝に次ぐ歴代2位の記録。
「テレビも巨人。全国区になるには巨人に勝つこと」。そういう時代だった。
平松氏も、小さいころから巨人ファンで長嶋ファンだった。
「ONをバックに投げることが夢だった」。岡山東商のエースとしてセンバツ甲子園で、わずか1失点で優勝投手となり、ドラフトでは、中日に4位指名されたが、巨人への思いを捨てきれずに入団を拒否した。
社会人の日本石油に進み、都市対抗でも優勝。再びドラフトが近づくと、巨人が1位指名を口約束した。
「しびれきらして、巨人のスカウトと会いましょうとなった。1位指名するからという話でね。子供から夢だった巨人に入れる。そう思っていたんだけどね」。
だが、1966年の2次ドラフトで、巨人は立教大の槌田誠捕手を1位指名。平松氏は裏切られた。その平松氏を2位指名したのが大洋ホエールズだった。しかし、ショックのあまり平松氏は、当初、入団を拒否していた。
その説得、交渉役を中部オーナーから指名されたのが、この日の殿堂入りのゲストスピーカーに招かれた土井淳氏だった。
土井氏はエースの秋山登と2人で岡山へ平松氏を訪ねた。
「中部オーナーの指令で秋山と一緒に説得にいった。まあ温泉でも行って話をしようとなって、その裸を見たら、すごい体をしていて驚いた。これは絶対に取りましょうという話をしたことを覚えている。平松が投げる試合は、おまえが受けろという三原監督の命で、平松のときは、マスクをかぶり、そのおかげで2年ほど選手寿命が伸びた(笑)。凄く球が速くて、シュートは切れた。まさにカミソリだった)
翌年のシーズン途中に入団した平松氏は、憧れだった巨人を倒すことをモチベーションにした。
「ふたを開けると、憧れのチームに入れない。悔しかった。今にみておれ、その悔しさがあったと思う」
平松氏が入団したのが、1967年。巨人のV9時代が、1965年から1973年だから、まさに巨人全盛期にぶつかったのである。
打倒・巨人で、とりわけターゲットにしたのが、ミスター、長嶋茂雄氏だった。
「長嶋さんに打たれると巨人というチームは盛り上がってしまうからね」
伝家の宝刀、カミソリシュートで、つまらせ、平松氏は、長嶋氏をカモにした。
両者の通算対戦成績は、181打数35安打8本塁打、打率.193、三振は33で、特に内野ゴロは65個もある。3打数に1度は、ゴロの山を築いていたのである。
だが、長嶋氏も、平松対策を考えた。
ピッチャーからグリップを見えない位置に隠しておいた上で、バックスイングに入る寸前に、すっと力を抜いてバットを落としてバットをを短く持ったのである。インコース対策にバットを短く持つのは原則だが、ミスターは、打席に入る前に、それとわかるようなことはしなかった。「巨人の4番がバットを短くもって打席に入るのはファンに申し訳ない」という美学であったと、後に聞かされた。
ファンにわからないように打つ瞬間にバットを短く持つのが、ミスターが守ったぎりぎりの美学であったが、平松氏のシュートを打つために、本当のプライドは、かなぐり捨てていたのである。
「わからないようにバットを落としたのでしょうが、私には(その動きが)わかりました。長嶋さんに憧れて私はプロに入りました。その人が、それくらい研究してもらったんだと、後で聞き、うれしく思いました」。200勝の記念パーティーで「夜も眠れないほど研究した」と、長嶋氏から、当時の話を聞かされ、平松氏は感激したという。
そのミスターにプライドをかなぐり捨てさせたカミソリと呼ばれたシュートは、何も血と汗の結晶ではなかった。
プロ3年目のキャンプ。ピッチング練習の途中で、実戦のための目慣らしで打席に入った近藤昭仁、近藤和彦というチームのベテラン2人に「たいしたボールじゃない」と馬鹿にされた。現在の温厚な平松氏からは想像がつかないが、当時は、血気盛ん。「何くそっ」と、とっさに、日本石油時代に教えられたシュートをかすかな記憶を頼りに投じた。すると、それが驚くような切れ味で曲がったという。
「少し体を開くようにしてストレートと同じ感覚で投げるから打者は(幻惑されて)手が出る」
平松氏の、それは体を開くだけで、無理に肘を捻るようなことはしない。だから、肘への負担もなく、体が開くので球筋はみやすいのに、鋭くボールが曲がってくるという錯覚が起きて打者は、そのカミソリシュートの餌食になった。
さらに巨人戦では、特殊な力が降りてきたという。
「湧き上がるように集中できた。こちらも夜も眠れなかった。すごいボールが巨人戦では行った」
バッテリーを組んだ土井淳氏も「巨人戦となると目の色が変わった」という。
だが、長嶋氏が1974年に引退、その6年後に王氏も引退。
「原、中畑が中心を打つようになると、夜眠れるようになった(笑)。でも、そうなると成績が落ちてよく打たれたなあ」
平松氏は、冗談交じりにそう振り返った。
ON引退後も、平松氏は4年プレーを続けたが、もう2桁勝てなくなった。平松氏は、1984年の1勝10敗を最後にユニホームを脱いだが、V9時代のONという巨星の存在が、平松の潜在能力を引き出してくれていたのである。
平松氏と、同じく岡山出身でひとつ年上の星野仙一氏も、この日、殿堂入りの会見で、巨人という好敵手の存在が、星野仙一というアイデンティティを形成させたことを強調していた。価値観が多様でない時代に生きていたからこその幸せがあったのかもしれない。