Yahoo!ニュース

チュニジア「国民対話カルテット」のノーベル平和賞受賞-その軌跡と意味

六辻彰二国際政治学者
(写真:ロイター/アフロ)

2015年のノーベル平和賞は、事前に有力視されていた、シリア難民の受け入れの先頭に立っているドイツのアンゲラ・メルケル首相らではなく、世界的には必ずしも知名度が高くなかったチュニジアの「国民対話カルテット」(QDN)が受賞しました。QDNは、チュニジア労働総同盟(UGTT)、チュニジア産業連合(UTICA)、チュニジア人権連盟(LTDH)、チュニジア弁護士協会(ONAT)の4つの民間団体の連合体です。2010年12月に始まった政治変動「アラブの春」のスタート地点でありながら、その後混乱し、2013年には内乱の淵に陥りかけていたチュニジアの安定と民主化に寄与したことが評価され、今回の受賞に至りました。ノーベル委員会によると、QDNは「多元的な民主主義の構築に決定的に寄与した」。

ノーベル平和賞はノルウェー政府、あるいは欧米諸国政府の価値基準が少なからず反映されるもので、ほぼ常に政治的な要素と無縁でありません。QDNの受賞は、チュニジアの民主化を中東・北アフリカのモデルケースにしたい欧米諸国の意思を反映したものといえるでしょう。ただし、QDNの受賞は、必ずしも中東・北アフリカや、これに対する欧米諸国の政策にとってだけでなく、より広範な意味をもつともいえます。

チュニジアの政治変動

チュニジアは象の戦車部隊を率いて古代ローマ帝国と戦ったハンニバル将軍で知られるカルタゴがあった土地です。ギリシャ・ローマの時代から地中海沿岸のヨーロッパと接触があったため、イスラーム圏といってもアラビア半島のサウジアラビアなどとは国風も異なり、1956年の独立以来、総じて近代化に肯定的でもありました。そのため、イスラーム法は施行されず、イスラーム圏で一般的なヴェールを着用しない女性も珍しくありません

その一方で、多くの開発途上国と同様、チュニジアでは近代化が必ずしも民主化を意味しませんでした。1987年に就任したベン・アリ大統領のもと、資源に乏しいチュニジアは海外からの投資を誘致するなど規制緩和を推し進め、その市場経済化は欧米諸国なかでも旧宗主国のフランスから中東・北アフリカにおける市場経済化のモデルケースと位置付けられました。しかし、ほとんどの民間企業はベン・アリの親族や取り巻きの縁故のある者によって握られ、腐敗や汚職も蔓延し、大学を卒業してもコネがなければ就職できないことも稀ではありませんでした。一方、湾岸諸国と比較して穏当とはいえ、政治活動は総じて規制の対象でした。このような状況の下、ベン・アリを中心とする人的ネットワークは国民から、マフィアを連想させる「ファミリー」と呼ばれたのです。

これに対する不満が暴発したのが、2010年12月のいわゆるジャスミン革命でした。首都チュニスをはじめ、各地で広がる抗議デモに、当初ベン・アリは鎮圧で臨みましたが、死傷者を出す事態がさらなる抗議を呼びました。高まる抗議を受けて軍隊が離反したことで、ベン・アリは最終的に亡命を余儀なくされたのです。その後、大統領宮殿を調査した複数のNGOによると、「ファミリー」の財産は50億ドルにのぼると報告されました。

「革命」後の混乱

チュニジアで発生した政変は、その後やはり権威主義的な体制が広くみられる近隣の中東・北アフリカ諸国に波及しました。「アラブの春」の到来でした。そのなかで、エジプト、リビアなどでは政権が崩壊し、モロッコでは体制そのものは維持されながらも、憲法がより民主的な内容に修正されるなど、いくつかの国で変化が生まれました。一方、サウジアラビアをはじめとする湾岸諸国では、政府が公務員としての雇用の増加や世帯ごとの給付の増加などを発表するや、抗議デモは鎮静化しました。このように「アメ」で対応できるほどの財力がなく、さらに強権的でもあったシリアでは、抗議デモの鎮圧が現在に至る内戦の導火線となりました。

やはり体制が崩壊した後、選挙で選ばれた政府が軍のクーデタで打倒されたエジプトや、全面的な内戦に突入して「イスラーム国」(IS)の流入も目立つリビアなどと比べれば、チュニジアの情勢は比較的穏当といえるでしょう。しかし、それでもベン・アリ後の同国は、順風満帆とはいきませんでした

2011年11月、チュニジアで議会選挙が行われ、これによってイスラーム穏健派の政党アンナハダ(Ennahda)が217議席中91議席を獲得。アンナハダは、中道左派で30議席を獲得した共和国会議(CPR)などと連立政権を樹立し、ハマディ・ジェバリ党首が首相に就任しました。その一方で、CPRのモンセフ・マルズーキ党首が大統領に就任するなど、権力の分有が図られたのです。

ところが、中東・北アフリカで宗教色の薄さでは指折りのチュニジアでも、革命前後から世俗派とイスラーム主義者の間の摩擦が表面化するようになりました。2011年10月、顔の全てを覆うヴェールを着用した女子学生の入校が大学側から拒絶されたことに端を発して、数百人の抗議デモが大学に押し寄せる騒ぎとなりました。また、同月、「イスラームに挑発的」とみなされる番組を放映した民間テレビ局に、やはり抗議デモ隊が押し寄せました

あらゆる革命では、「国民の結束」が叫ばれる一方、「分裂」も生まれやすくなります。それまで抑圧されていた者が解放されたことは、抑え込まれていた思想・信条や言論が噴出する契機となり、それは国民同士といえども「他者との相違」を明らかにせざるを得ません。近隣のアルジェリアなどと同様、チュニジアでも多くのエリート層は世俗的で日常的にフランス語を話すのに対して、低所得層ほど、アラビア語を話し、イスラームの慣習に従ったライフスタイルが一般的です。世俗的な、しかし権威主義的なベン・アリ政権のもとで抑え込まれていた各方面からの自己主張の噴出が、チュニジアの政治情勢を不安定化させたことは確かです。

内乱の淵へ

革命後のチュニジアの最大の危機は、2013年に訪れました。当時、2011年と比べて失業率はやや改善されたものの、それでも15パーセント以上ありました(若年層失業率はもっと高い)。さらに、インフレも高止まりの様相を呈していました。

画像

この背景のもと、2013年2月に世俗的な野党「民主愛国運動」のシェクリ・ベラド党首が、同年7月にやはり世俗的な野党「人民運動」のモハメド・ブラヒミ党首が、相次いでそれぞれ何者かに暗殺されるなど、政治的暴力が増え始めたのです。

チュニジア内相はこれらの暗殺がアルカイダ系のアンサール・アル・シャリーアによるものという観方を発表しましたが、急速に勃興するイスラーム主義への警戒感を背景に、全国で世俗派を中心とする抗議のゼネストが発生。イスラーム主義者と世俗派の対立が深刻化しました。これに加えて、アンナハダを最大与党とする政権の「過失」への批判も増え、特に217議席中42議席をもっていた6つの野党からは、議会からの離脱とともに、連立政権および制憲国民議会の解消への要求が高まったのです。

生活状況の悪化に加えて、政治的な対立の過熱によって政府への信頼が失われつつあるなかで、ジェバリ暫定大統領は連立政権の解消と実務的な政権の樹立を提案しました。しかし、アンナハダだけでなく、彼自身が党首だったCPRもこれを拒絶。その結果、ジェバリ氏が辞任する事態になりました。こうして、ジャスミン革命で「アラブの春」の先駆けとなったチュニジアは、それから3年も経たずに、イスラーム主義者と世俗派、与党と野党の相互不信が深まり、さらに政府は跳梁跋扈する過激派を取り締まれない状態に陥ったのです。

QDNによる対話促進

チュニジアが暗礁に乗り上げるなか、事態収拾に向けて活動を活発化させたのが、QDNの中心ともいえるUGTTでした。英米の中東・アフリカの植民地では、20世紀初頭から労働組合の結成が認められていました。一方で植民地支配をして「市民(あるいは人間)としての権利」は剥奪しながら、自国で高まる労働運動を反映して、植民地の人間にも「労働者としての権利」を認めていたところに、歴史の大きなアイロニーを感じざるを得ません。

ともあれ、チュニジアでも1924年に初めて労働組合であるチュニジア労働者総同盟が結成され、その他の労働組合が加わることで、1946年にUGTTが結成されたのです。それ以来、エジプトなどと異なり、全国的なイスラーム主義組織の力が強くないチュニジアで、UGTTは独立以来(必ずしも友好的といえない関係だった)政権与党を除くと、最大の組織力を持つ団体としてあり続けました。現在では全国に約150の支部があり、メンバーは68万人以上にのぼります(チュニジアの人口は約1089万人で、全人口の約6パーセントを占める計算になる)。

UGTTはベン・アリに対する抗議活動でも中心の一つとなり、新体制のもとでの選挙では、中道左派のいくつかの政党と密接な関係をもちながらも、独立した立場を維持し続けました。しかし、2013年半ばに政治危機が深刻化するなか、UGTTは経営者団体で常日頃は良好といえない関係のUTICAだけでなく、「法の支配」や人権保護の実現に向けて活動してきたLTDHやONATとともにQDNを結成。全ての政党に対する働きかけを開始したのです。

QDNは全ての政党に対して、大きく三つの要望を提示し、その実現を求めました。

・制憲国民議会の存続、

・党派に偏らない(non-political)政府の樹立、

・選挙の実施

国家分裂の危機に瀕していたチュニジアにおいて、QDNはあくまで民間あるいは市民社会の立場から各党に融和と再スタートを呼びかけたといえます。それまでに既に相互不信が高まっていた各党の間の調整は難航しましたが、この提案を支持するデモが各地で広がるなか、2013年10月にはアンナハダが政権からの離脱と暫定政権の樹立に合意。この決定の背景には、2013年7月にエジプトで、やはりムスリム同胞団系の政権が幅広い国民からの批判にさらされ、その背景のもとクーデタで倒れたことから、その二の舞を恐れたという観測もあります。いずれにせよ、これに続いて同月に全ての政党代表者がテレビカメラの前で翌年の選挙実施に合意。QDNの提案が広範な支持を集め、それが圧力となって生まれたアンナハダの現実的な判断は、チュニジアを内乱の淵から引き上げるパズルの最後のピースとなりました。

政権交代後のチュニジア

こうして成立したロードマップに沿って行われた2014年10月の議会選挙では、2011年からの政権から距離のあった「ニダ・チュニス」(チュニジアの呼び声)が86議席を獲得して第一党に躍進。一方、アンナハダは69議席、CPRは15議席に後退しました。ニダ・チュニスのベジ・カイド・エセブシ党首は翌11月の大統領選挙に立候補し、決選投票の末に現職でCPRのマルズーキ候補に勝利。これにより、チュニジアで初めて、平和的な政権交代が実現したのです。

とはいえ、その後も、当然ですがチュニジアの国内状況に何の問題もないわけではありません。選挙で勝利したマルズーキ大統領は、かつてベン・アリ政権で閣僚だった人物で、その率いるニダ・チュニスにも当時の政府関係者は数多くいます。国内対立が深刻化し、アンナハダ中心の政権への失望が広がるなか、国民の多くは、旧体制関係者であっても、実務的な能力が高いとみられる候補・政党を選んだといえるでしょう。権威主義的な政権を支えた人物が革命を経て返り咲いたという意味では、クーデタの後の選挙で政権を握ったエジプトのシシ大統領とほぼ同様です。

治安機関による監視下で行われた2014年のエジプトの選挙と異なり、チュニジアでの選挙は総じて自由かつ公正なものでした。したがって、たとえかつて権威主義体制を支えた人間であっても、それを選んだのは国民である以上、そのこと自体を批判することはできません。むしろ問題は、旧体制関係者以外に有力な候補がいなかったことで、これが改善されるか、換言すれば旧体制関係者以外に多くの有権者の期待に応えられる勢力が登場するかは、チュニジアの民主化における長期的な課題となるでしょう。

これに加えて、「公式の政治活動」における影響力を退潮させたイスラーム勢力の一部が過激化する危険性も無視できません。エジプトやリビアほどその勢力は大きくないものの、先述のアンサール・アル・シャリーアによるテロ活動はその後も散発的に発生しており、今年3月にチュニスで発生した博物館襲撃事件では犯行声明も出しています。アンサール・アル・シャリーアは「イスラーム国」(IS)を支持しており、エジプトやアルジェリアがそうであるように、対テロ戦争が政府の強権化を容認する一助となることに鑑みれば、これもやはりチュニジアの民主化と無縁でないといえるでしょう。

QDNのノーベル平和賞受賞の意味

とはいえ、QDNがノーベル平和賞を受賞したことからは、チュニジア一国や中東・北アフリカという文脈を超えた意味を見出すことができます。QDNの功績は、いわば「民主主義の欠陥を補う民主主義」を実践したことにあるといえるでしょう。それは国を超えて、社会の安定や秩序の維持にとっての、一つのモデルケースを示したともいえます。

選挙や民主主義は、国民の要望を取りまとめるという「統合」の側面があります。しかし、その一方で、個人や各勢力が自らの意見や利益を表面化し、競合することにより、そこには宿命的に「分裂」の側面もあります。民主政で名高い古代ギリシャで、市民権が拡大するにつれ、富者と貧者の間の階級間闘争が激化し、最終的に専制君主国家のマケドニアがギリシャ世界を併呑したことは、民主主義がもたらす社会の分裂の危うさを現代に伝えるものです。

翻って現代を眺めると、これほど民主主義が称揚される時代もないでしょう。しかし、利害や信条ごとに個人や集団の要望が政党にインプットされやすくなればなるほど、そして政党が支持者に対する「成果」を示さなければならなくなるほど、政党間の対立も無条件のものとなりやすくなります2013年、上院と下院で多数派政党の異なる米国で、オバマケアをめぐる民主党-共和党の対立から連邦予算案が認可されず、その執行が停止したことは、決して古い話ではありません。また、多くの中東・北アフリカ諸国でそうであったように、それまで権威主義的な政府に支配されていた国で、その政府がなくなった途端に自己主張が噴出し、かえって混乱が広がったことも、ほぼ同様です。言い換えると、民主主義の発達は自らの利益や信条を主張しやすいだけに、社会内部の対立や摩擦を生みやすくもするといえるでしょう。特に、スイッチを入れればオーダー通りの結果をもたらす機械の操作に慣れた現代人にとって、インプットが期待通りのアウトプットをもたらさない政治は「欠陥品」と映りやすくなります。

とはいえ、「各自が意見や要望を出すことが社会全体にとって不利益になる」と捉えて政治活動の抑制を唱える一方で、「全てを包含する国民の利益」を強調することは、19世紀プロイセンのヘーゲルと同様、全体主義へのプレリュードをたどる危険性をはらみます。したがって、全体主義に陥らず、しかも民主主義の弊害を克服するためには、できるだけ多くが受け入れられる妥協案の提示や調整が欠かせないことになります。妥協や調整というとネガティブに捉えられることがありますが、(人目を惹きやすい)突き抜けた原理や主張をそのまま適用しようとすることが、往々にしてその支持者以外からの拒絶反応を招き、社会の分裂を促す一因となることに鑑みれば、それは民主主義を維持するためのコストということができます。

その意味で、チュニジアが内乱の危機に瀕したタイミングで政党間の対話を促したQDNが果たした役割は、「分裂と統合」という民主主義の二側面のうちの後者に当たります。民主主義がとかく対立を呼びやすく、「民主主義の過多」さえ言われる現代において、「民主主義の欠陥を補う民主主義」を実践する、言い換えると「羹に懲りてあえ物を吹く」とならないようにする存在は、多くの国家・社会でも求められるといえます。職業的な政治家と、その中核的な支持者が陥りがちな排他性をカバーし、多様な人々が受け入れられる秩序を求めることの重要性を示した点において、QDNは功績があったといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

六辻彰二の最近の記事