阪神淡路大震災の当日、フィリピンで人々はどう行動したか
1995年1月17日の朝、筆者は、青年海外協力隊の食品加工隊員として、フィリピン・ルソン島のタルラック州の州都、タルラックシティにある大学(Tarlac State University)の研究室にいた。
研究室にあるラジオが、日本で大規模な地震が発生したと報じていた。当時、今ほどインターネットは普及していなかった。
大学の先生たちが、次々、研究室にやってきた。「日本で大きな地震が起きたって」「ルミの家は大丈夫なの?」「家族に連絡した方が」など、"JAPAN "で起きた大震災に、皆、心配そうな表情をしていた。
青年海外協力隊は、1965年から始まった、国の事業だ。これまで96カ国の途上国へ、51,238人の隊員が、技術伝達を目的として派遣されてきた。
フィリピンは、第二次世界大戦中、日本によって多くの死者が出ている国だ。私が会った高齢の男性は、大戦当時に覚えた「イチ、ニ、サン」という日本語をそらんじていた。「バカヤロー」という言葉を覚えている、と聞いた時には、日本人として恥ずかしくてたまらなかった。実際会ったのは少なかったが、日本を恨んでいる人もいた。
そんなフィリピンで、私の任地である大学の人たちは、皆、心配し、日本の家族の安否を案じてくれた。「関東にいるから大丈夫だよ」と言っても、皆、何度も声をかけてくれた。フィリピンは、キリスト教徒が多く、「祈りましょう」と言ってくれる人もいた。特定の宗教を持たない私は「もう起きてしまったことなのに、後から祈ってどうなるのだろう」などと思ってしまったが、親切な気持ちが身に沁みた。皆の気遣いは、震災後もずっと続いた。歴史的背景はあるものの、皆が心配して、祈ってくれた。このような異国の地でも、日本のことを思ってくれる人がいることに、深い感銘を受けた。
東日本大震災でも心配して連絡してくれた
2011年3月11日に発生した東日本大震災。すでに青年海外協力隊から帰国していたが、帰国後もやりとりを続けている女性(Lyn=リン)が、心配して連絡してくれた。
東日本大震災の発生日は、筆者の誕生日だった。管理職として勤務していたのがグローバルの食品企業だったこともあり、オーストラリアやタイ、韓国の同僚から、すぐに、「これだけ支援食料を送ることができる」と連絡を受けた。中でもオーストラリアは早かった。提供できる食料がエクセルの表できっちりまとめて、震災数日後に送られてきた。その後、日本の省庁や組織に送付方法を問い合わせ、たらい回しにあい、結局は、せっかくの彼らの申し出と善意を無にしてしまったことが、同年2011年に退職して独立する一つのきっかけにもなった。
自然災害は自国だけの問題では済まない
自然災害は、自国だけの問題では済まない。海外の人たち、過去に戦った歴史のある国の人たちも、心配し、心を寄せてくれる。人や物資を送り込んでくれる。地球が一つの「家」だと考えれば、隣人が災害にあえば、心配するのは自然な心の動きだろう。
自然災害が避けられない日本において、全国の自治体で備蓄が増えているが、一方で、賞味期限が接近してきた備蓄食料の大量廃棄が食品ロスを生み出しているという問題が報道されている。筆者も、この課題をなんとか解決したいと思い、これまで何度か記事に書いてきた。
参考記事:
なぜ「美味しさの目安」に過ぎない賞味期限の一年も手前で備蓄食料を捨てなければならないのか
3.11を迎え防災を考える 日本の食品ロスにカウントされない備蓄食品の廃棄、5年で176万食、3億円
まずは個人が備蓄食料を備えるのが基本だと筆者は考えている。災害発生時に交通が遮断されたり、市区町村など行政の備蓄倉庫が被災したりして、必ずしも居住地の行政の備蓄食料がタイムリーに手に入るとは限らないからだ。それは、阪神大震災だけでなく、東日本大震災でも、他の地域で起きた災害でも経験している。その上で、地域で助ける(共助)、市区町村や都道府県が準備する(公助)。しかし、公助や共助に頼り過ぎると、備蓄食品のロスが生まれる。全国の自治体で、入れ替えができずに賞味期限の迫った、もしくは過ぎてしまった備蓄食品が大量に溜まっている。自治体だけではない。自治会や事業者、マンションなども同様だ。
3.11の時のような大規模災害の場合は、国外に頼らざるを得ない状況になる。だが、自立しようとする姿勢(自助=自分で自分を守る、助けること)を忘れてはならないと考える。自立してこそ、お世話になった人への直接の「ご恩返し」や、他の人への「恩送り」も叶うのではないか。
阪神淡路大震災が発生したあの日、フィリピンで、多くの人が、日本のために祈りを捧げていた。
阪神淡路大震災で亡くなった方のご冥福をお祈り申し上げます。