安倍派一掃の「内閣改造」で、予算編成はどうなるか。宏池会と清和会、かつては「大福戦争」も
12月14日に、岸田文雄首相は、安倍派に所属する閣僚4人と副大臣5人と大臣政務官1人を交代させた。自民党最大派閥の安倍派(清和会)の政治資金パーティーを巡る裏金問題を受け、政務3役から安倍派を一掃するという「プチ内閣改造」を断行した形だ。
岸田首相は、12月7日まで岸田派(宏池会)の会長だった(8日に会長を退任するとともに派閥を離脱)。
宏池会(現岸田派)と清和会(現安倍派)という関係でいえば、第2次大平正芳内閣発足時には激しい対立が最高潮に達した。その第2次大平内閣でさえ、清和会(当時福田派)所属の閣僚を1人も入れないということはなかった(組閣時に3人入閣)。そうみると、第2次岸田内閣における今回の閣僚交代で安倍派を外して1人も入閣させないという事態は、異例なことともいえる。
自民党内の派閥の対立で、首相(党総裁)を支える側の主流派と、首相と距離を置く側の反主流派とに割れて、党を二分するほど激しく反目することは、過去にもあった。
今(本稿執筆時点)から遡ること44年前の1979年11月9日、第2次大平内閣が成立した。しかし、その組閣に至るまでが、「40日抗争」と呼ばれる激しい党内対立だった。それは、宏池会第3代会長の大平正芳と、清和会創設者(1979年1月結成)の福田赳夫の首班指名を巡る抗争で、「大福戦争」とも呼ばれた。
ことは、第1次大平内閣の下で衆議院を解散したが、1979年10月7日に行われた衆議院総選挙で自民党が議席を減らしたことに始まる。
第1次大平内閣は、当時現職の首相だった福田に、当時自民党幹事長だった大平らが挑んだ1978年11月の自民党総裁選挙で、田中派(当時。現在の茂木派(平成研究会)はその流れを汲む)の支援もあって大平が勝利して組閣した内閣だった。
第1次大平内閣の下での、福田派などの反主流派は、この衆議院選挙の結果の責任を問い、大平首相・党総裁に辞任を要求した。しかし、大平は続投を表明した。片や、反主流派は福田を首相候補として推すことを決めた。ここに、自民党は、日本国憲法第54条の規定で衆議院総選挙の日から30日以内に召集しなければならない特別国会の開会までに、首相候補を一本化できない事態に陥った。
1979年10月30日に特別国会が召集されるも、開会日は首班指名投票を行わずに散会という前代未聞の展開となった。その後も党内調整が試みられたが一本化は成立せず、11月6日に実施された衆議院での首班指名選挙では、自民党議員の票は割れ、大平と福田との決選投票となり、138票対121票で大平が内閣総理大臣に指名された(参議院でも大平が指名)。
首班指名選挙後の反主流派は、いわば「党内野党」の姿勢を示すも、「大平首相への協力を拒否するものではない。いくらでも相談に応ずる」(読売新聞1979年11月8日朝刊)との構えだった。そうした経緯を経て組閣した第2次大平内閣でありながら、清和会所属の閣僚も3人入閣した。ちなみに、第2次大平内閣では、文部政務次官に三塚博氏(後に清和会会長)、大蔵政務次官に小泉純一郎氏(後に清和会から首相候補、そして首相)が起用されている。
岸田内閣で、最大派閥の安倍派の閣僚を一掃するということが、いかに前例のないことかがわかる。
さて、こうした岸田内閣の「内閣改造」が、目下編成作業が進められている2024年度予算政府案にどう影響するだろうか。それは、
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